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40年くらい前の曖昧な記憶から、忘備録にと書き始めて10年分くらいは書いたはずですが、まだまだ先は長いです。せめて10年くらい前までは記しておきたいものですが、難航しそうな予感がします。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
21歳(1981年)の4月、本来なら大学4年生のはずですが、すでに学籍が無く単にプー太郎と呼ばれるべき身分かと思いきや、数ヶ月バイトした楽器屋から正社員化のオファーがあって何も考えずにOKしたものだから突然サラリーマンに変身してしまいました。
正社員と言っても、仕事内容はバイトの時とほぼ同じで、いや、バイトの時にすでに社員がやるべき仕事もさせられていたと思います。とにかく、保険や年金や積立が引かれてバイトの時よりも手取りは少なくなって、休暇の自由が無くなりました。社会保障と引き換えに社畜になるというロジックは21歳の若造でも理解できたので、その時点では自己理由以外の解雇が無くなったことを喜びました。これが現在までの僕の人生の中で唯一の月給取り生活でした。
楽器屋と言っても繁華街でレコードも売る店舗なので、営業時間が長く、ほぼ週休1日で、早番あるいは遅番での勤務によって、大学のクラブに通えなくなりました。それでも大学の前のアパートを住処にしていましたので、勤務のない休みの日は楽器を持って大学のクラブに行くようにしてました。この年の新入部員は男女とも実力派揃いでやはり3バンド結成できるくらいの人数になっていました。
忘備録も兼ねて、40年くらい前からのことを音楽を軸に書き綴っています。第一話・第二話・第三話と続けましたが、思い出すのに時間がかかってなかなか筆(キーボード)が進みません。いろいろなことが有り過ぎて全部を書こうとするからダメなんですね。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
20歳(1980年)の時、初めて舶来の楽器を手に入れました。高速神戸駅の近くにあったビンテージギター屋さんで、1970年代初期のGibson RB-250を中古で手に入れました。プー太郎にとって頭金保証人無しのローンは悪魔の囁きでした。たしか小豆島の春合宿でお披露目したように思います。数週間後、ギターの中井くんも同じ店・同じ支払い方法で1960年代のD-18を買いました。
おかしな後日談ですが、完済間近の頃に支払いが滞った時に来た催促書には、品目としてGibsonオートバイRB-250と書いてありました。もちろん完済しましたよ。
忘備録も兼ねて、40年くらい前からのことを音楽を軸に書き綴っています。#1として7年分、#2として1年分しか書けていませんが、懲りずに続きを書きます。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
19歳(1979年)の春、中学校の同級生・梶原くんが高校時代に紹介してくれたブルーグラスの友人・太田くんが大阪経済大学に合格して、その合格祝いにパッとやろうということで、大阪芸大のマンドリンの浜田くんらとレコード屋巡りをすることにしました。宴会では無いところが10代の若者ですね。僕は高校時代からよく行っていたのですが、梅田阪急東通りのDAN、東中通りのLPコーナー、心斎橋の坂根楽器に3人で行きました。ブルーグラスでもお互いに毛色の違うレコードを買って交換会をしましょうということで、何を買ったか忘れましたが、一人5枚は買ったと思います。
たしか、この頃、浜田くんと太田くんと僕ともう一人でバンドを組むという話が有って、何度か練習したことがあります。今だから告白しますが、その時の僕の楽器はフィドルでした。スタンレーの古い曲を何曲かレパートリーにしていましたが、ハモになると笑ってしまうのでバンドは消滅したような記憶があります。
記憶が曖昧になっているのを自他共に認めて、40年ほど前からの人生の記憶を音楽を軸にして忘備録として書き始めたのはいいのですが、予想に反しての長文になり、文中、大学入学直前で一旦筆(キーボード)を置きました。これはその続編です。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
18歳(1978年)の春は受験〜卒業〜入学でした。関西大学第一高等学校から関西大学へ入るための受験は、一般の入試とは別に内部入試という形で1月に行われていました。高校2年の時に文系志望と理系志望でクラスが分かれ、内部入試もそれに沿って行われました。当時、理系は工学部しか無く、その中の各学科を選択して志望するという形での内部入試でした。高校1年の時に死んだ父親の遺志で、今で言うIT系の唯一の学科であった管理工学科を受験しました。内部入試とはいえ、ほんとに勉強の出来ない奴は落ちました。かろうじて合格して入学の日を待つことになります。
その年の関大の入学案内は、表紙をめくって次のページ全面にフラットマンドリンを持った男前のお兄さんの写真が載っていました。入学後分かりましたが、ブルーグラス同好会の吉沢先輩でした。
記憶が曖昧になっているのを自他共に認めざるを得ないので、40年ほど前からの人生の記憶を音楽を軸にして忘備録として書いておきたいと思います。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームじゃないのでご容赦ください。
11歳(1971年)、兵庫県川西市多田小学校の6年生でした。前年は東京杉並で暮らしたにも関わらず、夏は昆虫採集、冬は雪合戦に興じる田舎の子供になっていました。当時の小学校にしては珍しく、音楽の授業は音楽室で音楽の先生に習いました。僕はハーモニカもリコーダも吹けない音楽嫌いでしたが、「世界の楽器」というような授業があって、いろんな楽器の存在を教えてもらいました。中でも背中の丸いマンドリンとバンジョー(たぶん4弦)、コントラバスは楽器が音楽室に置かれていて、女の先生が実演してくれました。先生はマンドリンクラブ出身だったのかもしれませんね。レコードも掛けてくれて、フォスターの曲をバンジョーで弾いているのを聴かせてもらった記憶があります。その時からバンジョーの音は僕の脳味噌の端っこに刷り込まれました。