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音楽人生忘備録#3Update : 2013/10/11 Fri 02:57

忘備録も兼ねて、40年くらい前からのことを音楽を軸に書き綴っています。#1として7年分#2として1年分しか書けていませんが、懲りずに続きを書きます。

記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。

19歳(1979年)の春、中学校の同級生・梶原くんが高校時代に紹介してくれたブルーグラスの友人・太田くんが大阪経済大学に合格して、その合格祝いにパッとやろうということで、大阪芸大のマンドリンの浜田くんらとレコード屋巡りをすることにしました。宴会では無いところが10代の若者ですね。僕は高校時代からよく行っていたのですが、梅田阪急東通りのDAN、東中通りのLPコーナー、心斎橋の坂根楽器に3人で行きました。ブルーグラスでもお互いに毛色の違うレコードを買って交換会をしましょうということで、何を買ったか忘れましたが、一人5枚は買ったと思います。

たしか、この頃、浜田くんと太田くんと僕ともう一人でバンドを組むという話が有って、何度か練習したことがあります。今だから告白しますが、その時の僕の楽器はフィドルでした。スタンレーの古い曲を何曲かレパートリーにしていましたが、ハモになると笑ってしまうのでバンドは消滅したような記憶があります。

4月、目に余るほど学内の桜が咲き、その下で祝い酒を飲みながら新入生勧誘の演奏するのが、僕は大好きでした。大学2年になり、今度はブルーグラス同好会で正式に新入生を勧誘する立場になりました。新入生の学年もバンドが3つできるだけの人数が集まりました。僕らの学年にもまして即戦力のプレイヤーが何人も居て、ますます関大ブルーグラスは各方面で増長しました。また、この学年の後輩は今でもお付き合いのある人が多いです。

前年12月にやったクリスマスコンサートに味をしめて、春にも定演をということで、学内でスプリングコンサートが企画されました。オープニングジャム〜Foggy Mountain Boyasのステージのテープが残っていました。

僕らが1年の時は連れて行ってもらえませんでしたが、たぶんこの年から恒例になった関学参りというのがありました。単に1年生を関学のアメ民に紹介しに行くというだけの話ですが、上級生にとっても大学間の交流ができる楽しい一日でした。前年の学祭でもお邪魔したとは思いますが、大学は違えど先輩にあたる秋元さんや前田さん、村片さん、大野さん達ともこの機会に知り合えました。たぶん5月か6月頃だったと思います。1年生の話は置いておくとして、関学アメ民にも僕らと同級生の2年生バンドがありました。ちゃんと覚えてなくて申し訳ないのですが、彼らのバンドはそんなに上手ではなくて、やる気も感じませんでした。でもギターと唄の黒澤くんがフィドルも上手であることを見つけて、松尾くん、中井くんと一緒に、黒澤くんにフィドラーとして僕らのバンドに入ってもらえるように口説きました。関学なのに同志社のバンドで活躍していた秋元さんにも口添えを頼んだかもしれません。あまり時間を待たずに快諾してくれて、晴れて黒澤くんは僕らと一緒にやってくれることになりました。

僕の学業の方はひとつの壁にぶち当たっていました。電算機実習という今では考えられない悠長な授業がありました。アルゴリズムというものを策定した後で、データや計算式を膨大な枚数のパンチカードに入力(穴を空ける)して、大型電子計算機(しかしながら計算能力は今のパソコンの何百分の一)にパンチカードを読み込ませ、その計算結果を数日がかりで待つという実習でした。一発で終わるわけはなく、入力間違いを探して最初からやり直しで、今のエクセルなら15分も掛からないことを一週間も掛けるのですが、僕はバイトもあるし、ライブもあって、熟考の末、この実習をスルーすることにしました。この時点で留年が決定しましたが、仕方がありません。

黒澤くんがフィドルで加わった僕らのFoggy Mountain Boyasは秘密裏に練習を重ね、神戸ホンキートンクでの腕慣らしをさせていただいた上で、8月の第8回宝塚フェスに望みました。フィドルが加わった本格的なFlatt & Scruggsスタイルの演奏を僕らは楽しみましたが、丘サーファーの黒澤くんはライトニングボルトのビーチサンダルで三田の山の中に来てしまいました。案の定、ぬかるみで滑って転んでバイオリンの竿が折れてしまいました。一気にモチベーションが急降下して彼にとって史上最悪の夏となってしまいました。それでも我が関西大学ブルーグラス同好会には畠田商会というバイオリン業者が出入りしていましたので、すぐに修理に出してもらい、僕がおばあちゃんからの入学祝いとしていたスズキの安いバイオリンを彼に貸与しました。

その年の夏合宿は沖縄でした。沖縄と言っても久米島という離島です。沖縄在住のOB・荻堂さんのご手配で、7泊8日(内船上4泊)で3万円という格安旅行での合宿でした。関学から参加の黒澤くんは来てくれたのに今回もギターの中井くんは来ませんでした。場所もリゾート地ということもあり、どのバンドも練習など上の空だし僕的には今回も不本意な旅でした。でもこんなことが無ければ、この時期に沖縄に行くこともなかっただろうなと先輩方に感謝してます。

夏休みが終わって秋になる頃、僕はバイトで不在だったのですが、石倉さんという人がブルーグラス同好会のたまり場に出入りするようになりました。聞けば、子供ショーで楽器を弾いてくれる人材を探しているということで彼の母校である関大に来たということでした。興味本位で楽譜を貰って、ドラえもんの唄や森の熊さんを譜面通りに練習して石倉さんのベースと音合せしたところ、某月某日の朝6時にバンジョーを持って梅田シェーキーズの前に来るように言われました。約束通り待っていると大きな車に載せられて十三の事務所というところに連れて行かれました。そこで何か車に積み込みをして、他の人達も乗り込んで来て、ずっと車で寝てて良いからと言われたので、早起きしたせいもあって、そのまま車の中で寝ていました。何度か起こされたようですが、意識無く、起きた時は夕方でした。しかも東京新宿でセンチュリーハイアットの下でした。目が覚めたら新宿、という非現実的な体験もそこそこに、演奏現場はそこの地下のホールなので今から仕込みとリハを行うとのことで、初めて子供ショーの音出しを一緒にさせていただきました。リハが終わってどこかタコ部屋に泊めていただけるとのことでしたが、かつて知ったる東京ですので、杉並の本家に電話を入れて一泊させてもらいました。本番は翌日で、本番終わってとんぼ返りでした。本番は着ぐるみを被っての演奏だったことを付け加えておきます。

それで、大阪に帰ってきて貰ったギャラがデーマン。バンドマンのビータ仕事としては破格の安さですが、一日働いて4000円くらいのバイトをしていた僕には目玉が飛び出るほどの歩の良い仕事でした。駆け出しでデーマン貰ったことで、僕は一大決心をしました。大学を辞めて演奏を仕事にすれば、学費のためのバイトをせずに演奏のための時間をたくさん持てるし、ギャラはそのまま手元に残るので、こんな良いことは無いというわけで、(実は学費分を稼げていなかったこともありますが、)後期の学費を払いませんでした。これで中退を決意しました。僕が中退する旨クラブに伝えると、学費のカンパを提案してくれた先輩も居ましたが、除名処分を言い出す先輩も居ました。同級生は、クラブやめてもバンドは継続と言ってくれましたので、逆風はスルーできました。今考えたら、たかが大学のクラブなのにこれからプロになろうかという人間が馬鹿馬鹿しいことで悩んだと思います。

駆け出しの人間にバンドの仕事がそうたくさんあるわけはないので、しばらくはバイトも続けましたが、夜中の仕事は辞めて、ギターの中井くんの紹介で公営ギャンブル場のガードマンのバイトをしました。前節・後節というのがあったり、開催場所の移動などがあったりして、不定期でしたが、日当も良いのでけっこう長い間お世話になりました。岸和田競輪や住之江競艇、西宮競輪など勤務地は開催によって様々でした。尼崎センタープールに配置があった時は、終業後に立花まであるいて、先輩のギターの小澤さんがやってた喫茶店に何度か伺いました。優しい先輩は腹を減らした僕と中井くんにピラフをよくご馳走してくださいました。
しかしながら、天気の良い或る日、誰一人通らないセンタープール〜出屋敷間の団地の道路で駐車違反を見張る任務についた時、脳味噌が空っぽになって自分のやってる仕事に疑問が沸き、これは音楽家がやってはいけないことだと妙に納得して制服のまま自宅に帰ってしまいました。それ以来ガードマンの仕事はしてませんが、このバイトで、隊列の作り方や敬礼等の所作を覚えました。なんでも経験です。

ガードマンのバイトをやめた後は、同じ公営ギャンブル場ですが、園田競馬場で阪急バスの客員整理というバイトをしました。ひとつ上の先輩の山本さんの地元ということで当初はその学年の先輩方がバイトされていましたが、徐々に僕らの学年と後輩達がバイトするようになっていきました。後輩の梶野くん、二神くん、玉木くんらと、バスの発着の少ない昼間に時間つぶしでパターゴルフみたいな遊びを考えだして楽しんだことを思い出します。競馬を覚えたのもこの時で、腕章を外して場内に入って馬券をよく買いました。たまには大当たりして飲み代になることもありました。

当時、関東では大学のブルーグラスサークルの組合というべきユニグラスなる組織がしっかりと運用されていました。関西と違って大学の数も多く、参加バンドも大変な数になっていましたが、共済組織としてうまく機能していたみたいです。それを見習って関西でもユニグラス同様の組織を作ろうと僕らのひとつ上の学年の先輩方が音頭を取っていました。閑閑同立神追の6大学を中心に他の大学のブルーグラスサークルも巻き込んでいくと、その頃たしかお聞きしました。その二回目の総会(というよりコンパ)が関大前で行われた時に、僕らの学年も一緒に参加させていただきました。当時はそうそうたる面々が一同に集まって、その末席に自分も居れたと感動した覚えがありますが、その後、その組織がどうなったかは誰も知りません。。。。。

秋の学祭シーズン、僕らのバンドは、関学、同志社、神戸大に出向いていったと記憶しています。関学の学祭では松尾くんが来ずに秋元さんにトラをお願いして演奏しました。後年長きに渡って仕事で一緒に演奏させていただくことになりますが、これが最初の共演だったと思います。この時のテープが有ったはずなのですが、見当たりません。

僕ら関大の学祭は、基本的に前年と同じ企画のピザハウスでした。ただ、幹部の学年に女子が居なかったので、僕らの学年の多田さん、山谷さんが後輩の女子とともに頑張ってくださいました。今更ながらですが、女子の同級生、先輩、後輩には感謝していることを表明しておきます。(言うのが遅い、とのお叱りはごもっともです。。。)

フェスや学祭のシーズンが終わると、奈良の松尾くん宅で録音練習会をよくやりました。このおかげで当時のレパートリーが全部音源化されています。

前述、子供ショーの石倉さんは梅田シェーキーズで毎夜ベースを弾いていました。バンドのマネージャーからベーシストに転身したそうです。その関係で、ピザを食べるわけでも無いのに、よくシェーキーズに出入りさせていただいて、クラリネット吉川さん、ラッパ池田くん、ピアノ藤森さん、バンジョーにカエルさんという編成のジャズ演奏をよく聴きました。South Side Jazz Bandというバンド名はしばらくしてから知りましたが、この頃に古いジャズ曲をたくさん覚えました。たまには(5弦バンジョーですが)ステージに上げていただくこともあって、親しくさせていただきました。

当時のCharly Times 大賀さん提供

当時のCharly Times 大賀さん提供

心斎橋鰻谷にあったリッジランナーに出入りするようになったのもこの頃だったと思います。一度くらいはライブをさせていただいたと思います。

同級生のマンドリン山谷さんによると、彼女のバンドのLady Birdと対バンで、この12月、初めて梅田チャーリーブラウンに出演させていただいたということです。ちゃんと覚えていないのは演奏が酷かったからでしょう。

年末のバイトは夏同様にそごう百貨店で佃煮を売って、昨年と同じく年末年始の伊勢鳥羽のジャンボクラブへ住み込みバイトに行きました。この年は、先輩方と一緒ではなく、ギターの中井くんや後輩の二神くんや玉木くんなど数人で行きました。前年にやったので勝手もよく知っていて、実はよくサボって寝ていました。寝ていた場所は秘密ですけど。

20歳(1980年)は、いよいよバブル元年です。
シェーキーズのディキシーバンドのトラとか、ディキシーのバンジョーのトラという仕事を少しずついただけるようになりました。

春休みに小豆島でクラブの合宿が有りましたが、前年とは違い、島の反対側にある夏は海水浴、冬は音楽系サークル専用の民宿になる宿に行きました。たしか、岡山県の日生(ひなせ)まで行ってフェリーに乗り換えて小豆島に渡ったと思います。ようやくギターの中井くんが合宿に来てくれて、合宿でバンド練習をまともにできました。僕にとっては有意義な合宿でした。「静かにして下さい」と怒りで震えた低い声の館内放送が深夜有ったことを覚えています。ブルーグラスの人は夜中にジャムセッションをすることについて、全く悪意はないんですよね。

続く

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