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音楽人生忘備録#2Update : 2013/10/10 Thu 15:07

記憶が曖昧になっているのを自他共に認めて、40年ほど前からの人生の記憶を音楽を軸にして忘備録として書き始めたのはいいのですが、予想に反しての長文になり、文中、大学入学直前で一旦筆(キーボード)を置きました。これはその続編です。

記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。

18歳(1978年)の春は受験〜卒業〜入学でした。関西大学第一高等学校から関西大学へ入るための受験は、一般の入試とは別に内部入試という形で1月に行われていました。高校2年の時に文系志望と理系志望でクラスが分かれ、内部入試もそれに沿って行われました。当時、理系は工学部しか無く、その中の各学科を選択して志望するという形での内部入試でした。高校1年の時に死んだ父親の遺志で、今で言うIT系の唯一の学科であった管理工学科を受験しました。内部入試とはいえ、ほんとに勉強の出来ない奴は落ちました。かろうじて合格して入学の日を待つことになります。

その年の関大の入学案内は、表紙をめくって次のページ全面にフラットマンドリンを持った男前のお兄さんの写真が載っていました。入学後分かりましたが、ブルーグラス同好会の吉沢先輩でした。

関西大学への入学が保証された時点で、僕はアルバイトとバンジョーの練習に励みました。高校にも行ってたわけですから、この頃のことはあまりにも忙しすぎてほとんど覚えていません。アルバイトの給料は入学金に消えました。

桃山大学の片岡さんと千里高校の工藤くんとのバンドは続けていました。ある日、3人で初めて宝塚市川面のB.O.M.サービスにお邪魔しました。駅からの道が分からずに居ると、緑のカルマンギヤで社長の渡辺俊雄さんが迎えに来てくれました。三郎さんはこの頃は東京住まいだったようで不在でした。B.O.M.に伺ってジャムをいっぱいさせていただいて、その後に、珍しいテープやLPをダビングさせていただきました。

大学の入学祝い、親は何もしてくれませんでしたが、背広を買ってやると祖母が執拗に言いました。当時の僕の価値観では、自分は大学の入学式にスーツを着ていくほどの馬鹿じゃないと考えていたので、最後までお断りし続けました。とうとう最後には、好きなモノを買いなさいと、3万円呉れたので、そのお金を持って、国鉄吹田駅前の井村楽器に吊ってあったスズキバイオリンNo.300を28000円で買いました。(この楽器はいつでも弾けるようにして今も保存しています。)

4月の入学式当日、僕はとうぜんながらスーツを着ずにジーンズとネルシャツ、トレーナーで正門をくぐりました。ついでにバンジョーをハードケースに入れて持っていました。正門をくぐると文化系・体育会系サークルが入部の勧誘をしていました。赤縞のチョッキを着たディキシーランドバンドの演奏は賑やかで吸い込まれるようでした。軽音のロックやジャズはメインストリートでは聴けませんでした。私服+楽器の僕には誰も声を掛けませんでしたが、応援団やチアガールが腕を引っ張るような新入生勧誘の人垣の裏側で、耳に馴染んだブルーグラスの演奏が聴こえました。これから式に出なくてはなりませんので、ブルーグラス演奏の横の生け垣にバンジョーケースを隠して、入学式が執り行われる体育館(講堂?)に向かい、たぶん偉い人の話を延々と聞かされて午前中の無駄な時間をそこで潰しました。その後、新入生のオリエンテーリングに行かなければいけないことになっていましたが、そんなことで夕方まで時間を取られてしまうと楽器を持ってきた意味が無くなりますので、とっととフェイドアウトして、また正門周辺まで戻り、ブルーグラス同好会に正式に入部の申し出をしました。僕の4年来の目的がここに達成されました

入学式当日に楽器を持ってそのままブルーグラス同好会に入部した僕は、名前もまだ存じ上げない先輩方に混じって、新入生勧誘の演奏をしました。先輩方のように馴れた演奏はできませんでしたが、演る曲演る曲が知っている曲ばかりで、まるで半年前に行った宝塚フェスに居るようで大変興奮した一日でした。

大学の授業が始まると、毎日朝一でクラブ員がたむろしている場所(正門入ってすぐの植え込み)に行って楽器を置いて授業に出ました。そのうち、代返というのを教えてもらって、授業に出ずにクラブの場所にたむろするようになりました。さらに朝一でクラブに行って一切授業に出ないで夕方まで楽器を弾くようにもなりました。

4月の中旬、まだ新歓コンパのずっと前ですが、今でもお付き合いする朋友、松尾くんと中井くんが入部しました。他にも高校の同級生だった山下くんと崎山くん他、3バンド結成できるほどの入部がありました。各学年10人程度の部員が居ましたので、今では考えられませんが、関西大学ブルーグラス同好会は総勢40〜50人の大所帯でした。狭いブルーグラスの世界ですが、我が世の春を満喫できた良い時代でした。

松尾くんは奈良在住でしたが、高校時代は京都でナターシャセブン系の音楽に親しみ、フェイバリットプレイヤーはFrank Wakefieldだというマンドリン弾きでした。当時から楽々発声しているハイテナーは先輩も羨むほどでした。中井くんは残留孤児、いや帰国子女でかなりの音楽通でした。ブルーグラスの演奏は経験がありませんでしたが、フュージョンやブルースのギターに造詣が深く、シンガーソングライター系の楽曲にも詳しかったです。僕は、そんな松尾くんと中井くんと一緒にバンドをすることになり、新入生らしく、基本的なトラッドなブルーグラス、Bill MonroeやFlatt & Scruggsの曲をレパートリーとして練習していくことにしました。

高校時代のブルーグラスの友達とも交流は続いていまして、ちょうど梅田のチャーリーブラウンでBluegrass 45の初めてのリユニオンがあるというので、浪人中の太田くんと大阪芸大に入った浜田くんの三人で初チャーリーしました。アンコールをずっと聴いているうちに最終電車が無くなって、梅田から吹田まで三人で歩いて帰りました。長い道中も、ライブの感想をお互いに語り合ってすぐに吹田の我が家に着きました。なぜか赤提灯屋台が住宅街に来ていたので、18歳の三人がおでんをつつきながら日本酒を飲みました。いや、日本酒を飲んだのは僕だけで、太田くんからは極悪非道の不良だとずっと思われていたようです。その後、二人を我が家に泊めるには時間が遅くなってしまったので、吹田市役所の屋根付き自転車置き場に我が家の楽器を持って行き、途中、警備の人に叱られたりもしましたがうまくやり過ごして、朝までジャムをしました。若いって素晴らしいですね。今はもうできません。

勉強するために大学に入ったのかジャムするために入ったのか分からなくなりましたが、夕方にはちゃんと家に帰りました。授業料を稼がないといけないのでアルバイトが必要でした。当時は吹田の町中にあった製麺工場で17時から23時まで毎日働きました。元気な日はそのまま朝5時まで延長して働きました。夏休み、昼間は心斎橋そごう百貨店の地下惣菜売り場で佃煮を売り、夜は製麺工場で働きましたが、製麺工場の出勤時間がケツカッチンで少し遅れることがありました。ある意地悪な老工場員がそれはけしからんと僕をクビに追いやりました。工場長は僕に非が無いことを理解していましたが、老工場員との付き合いを優先して僕を解雇するということで、バイトなのに退職金を呉れました。

クラブ員が集まる場所でいつものようにジャムセッションをしていた或る日、1年先輩の方々が今からちょっと別の所行くから付いておいでと言うので、守上先輩のアパートに付いて行きました。高校時代にアルバイトをしていた寿司屋の200mほど北側の学生アパートでした。守上さんは、当時まだ珍しかったオープンリールの4trマルチトラッカーをお持ちでした。オーディオにもお詳しかったと覚えています。そのマルチトラッカーで録音した、先輩の若葉ボーイズの録音を聴かせていただきました。トラックダウンしたものの他、作業中の録音も有りました。仲間内では有名な「Roland (White)みたいに歌とてしもた」というセリフが入った生々しい録音もこの時に聴きました。

関大の世襲バンドはSouthern Mountain Boysと言いますが、その七代目は、当時3年生のフィドルの大矢さん、ギターの小谷さん、バンジョーの田中さん、マンドリンの鏑木さん、ドブロの米倉さんらが担当していました。そして同じ3年生にはギターの堀江さん、マンドリンの福田さんのWhite Sistersが有りました。その2バンド対バンで梅田チャーリーブラウンに出演するという日があって、僕ら後輩も連れもって出かけたことを覚えています。先輩方の真剣な演奏をたぶんこの時初めて聴きました。関大のクラブに入れてよかったとあらためて喜びました。この日、終演後、飲み慣れていない多田さんをご自宅までお送りしましたが、何も無かったです。ご安心を。

夏休みの間、バイトで毎日を潰していたわけではありません。高校の時に初参加した宝塚ブルーグラスフェスティバルに、この年は大学生として、クラブの一員として参加しました。松尾くんと中井くんと組んだ大学1年生バンド「Foggy Mountain Boyas」はなんと先輩を差し置いてゴールデンタイムにブッキングされていました。きっとバンド名が功を奏したのでしょう。そして、前年はステージには上がりませんでしたが、桃山大学の片岡さんと千里高校の工藤くんと一緒に高校の時からやってたWeedy Grassというバンドでもこの年は演奏しました。僕はギターだったので、実はステージで1曲リードボーカルでした。今思うと恥ずかしいです。工藤くんは同志社大学に入ってフィドルに転向しようと頃です。同志社には上手なバンジョー弾きが何人も居るとぼやいていました。

この年の宝塚フェス、国鉄大阪駅からディーゼルカーで福知山線を北上しました。高校時代からの友人で当時予備校生だった太田くんを強引に誘ったら、予備校に行く準備のままで大阪駅に来てくれました。楽器も泊まりの用意もないままフェスに行ったわけです。この時、果たして太田くんが楽しめたかどうかは未だに知りませんが、その後の彼の活躍を考えると無理にお誘いして良かったのだと安堵しています。

関大ブルーグラス同好会は毎年夏合宿を行ってました。この年は恒例の神鍋高原で行われました。初めて行く大学のクラブ合宿、というよりも僕はクラブというのに入って合宿に行くのは生まれて初めてでした。音楽のクラブですが、体育会系のように縦割りの人間関係がありました。今考えると社会に出るための準備として丁度良い躾をしてもらったと思いますが、クラブというものに慣れていない、僕、中井くん、松尾くんはかなりの違和感を持って合宿を過ごしたことと思います。今考えると半分冗談ですが、面接という名目で1年生をひとりずつ個室に呼び出し、先輩方がネチネチと意地悪な質問を浴びせるという通過儀礼もかなりストレスでした。いや、でもそういう経験と伝統が受け継がれて、ステージであがらない毛の生えた心臓が出来上がっていたのだと今になって思います。(関大ブルーグラス同好会のメンバーでステージでアガル人は一人しか知りません。)

夏休みがんばってバイトしたおかげで後期の授業料を捻出できました。秋といえば学祭です。1年生ゆえ、ブルーグラス同好会が学祭で何をやるかは全く知りませんでしたが、兵隊のごとく言われたままパシリをしましたら、みごとにシェーキーズのようなピザハウス兼ライブハウスを3日間に渡って運営しました。宅配ピザなど無く、ピザの存在を知る日本人がまだまだ少なかった頃、スーパーのニッショーでクラスト買い占めして作った原価割れのピザは大変美味しかったのを覚えています。ライブの方も、僕らは前座ですが、クラブのバンドだけではなく、学外の素晴らしいバンドが来演してとても楽しかったのを覚えています。

製麺工場を解雇されましたので、代わりのバイトが必要でした。梅田北新地で深夜営業する高級中華レストランで23時から28時まで毎日皿洗いをしました。若い見習いコックが練習のために作る賄いが、高級食材を惜しみなく使った料理で大変美味しかったのを覚えています。さすが新地です。また、全て漢字で書かれたメニューを読みこなせるようになり、以後ネイティブな中華料理屋でも注文が困らなくなったことに感謝です。人生勉強です。

音楽系のクラブと云えば、定期演奏会というのがつきものだと思っていましたが、ブルーグラス同好会では各バンドがそれぞれライブで演奏活動していましたので定演というものが未だ開催されたことは、この年の12月までありませんでした。クリスマスコンサートと銘打って開催した学内コンサートは、実は僕ら1年生が先輩方にお願いして企画していただいたコンサートでした。手作りコンサートは終演まで楽しめ、達成感が心地よかった思い出があります。

冬休みは、心斎橋そごう百貨店の佃煮売りを年末までやりました。向かいの大丸百貨店では1年先輩のバンジョーの杉本さんが瓶缶調味料売り場でバイトされていました。お互いの社員食堂を行き来した覚えがあります。大丸の方が社食はグレードが高かったです。

年末年始は、2年生の先輩と一緒に伊勢鳥羽の会員制ホテル・ジャンボクラブに住み込みで働きました。そのバイトに行くために、同期の松尾くんにそごう百貨店のバイトの引き継ぎをお願いしました。僕はバンジョー担いで上本町から近鉄特急に乗り込みました。厨房仕事に慣れているので、ホテルではそっちに回されればうれしかったのですが、ルーム係になって、ベッドメイキングや掃除を毎日やりました。夜お客の宴会が終わったら、僕らは自由時間です。先輩方も僕も楽器を持参していますから、毎夜寝所の部屋でお酒飲みながらジャムセッションです。当時流行ったブロック崩しやインベーダーゲームが客室に置いてあって、追加コインを入れずに永遠に遊ぶ方法も発見しました。このバイトでもホテルの仕事というものが理解でき、今でもビジネスホテルの従業員に感謝しながら利用しています。

19歳(1979年)、初めての大学後期試験は理由は忘れましたが、大学封鎖によるレポート試験でした。授業に殆ど出ていませんでしたし、この時レポートを1つでも出した記憶は有りませんが、それでも数単位獲得できたことは、今考えると大変おかしいです。まだまだ一般教養課程ですので留年というのはありませんでしたが、ほとんど単位の無いまま春には2年生に自動的になりました。

この頃、マンドリンの松尾くんの奈良の自宅で度々繰り広げられた録音練習の成果は半端ではありませんでした。19、20歳の若造が好むとは思えない爺臭い賛美歌のようなセイクレッドソングを好んでレパートリーに加えました。(フィドラーが加わる前でしたが、録音練習では後入れで自宅フィドラーがいっぱいいっぱいのフィドルを足しています。)

春休みの春合宿は、小豆島の民宿「まり」に行きました。神戸元町の港からフェリーで行ったと思います。この頃、ギターの中井くんは合宿に来ないつまらない奴でした。なのでバンド練習はできずに、僕的には勿体無い旅になってしまいましたが、僕の初小豆島合宿として思い出深いものになりました。

前期授業料もなんとか払えましたが、バイト生活と音楽の両立にかなり難しさを感じていました。神戸ホンキートンクにバンドで初めて出演させていただいたのもこの頃だったと記憶しています。高校の同級生でブルーグラス同好会に一緒に入った崎山くんが、この頃フィドルを弾いてくれたのではないかと思います。

続く

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