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音楽を軸に自分の過去について曖昧な記憶から時系列に忘備録を書きはじめて、30年ほど前のことに差し掛かりました。中学〜高校〜大学は学年ごとにキーになるトピックが有って、それを中心に思い出せば順番に記憶が繋がっていくのですが、大学と縁が少なくなったこの頃は、時系列での記憶感覚が麻痺しています。不確かな記述が多くなりますが、誤認識をご指摘賜れば幸いです。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
1983年の関西大学ブルーグラス同好会学祭で思い出したことがあります。それで、当時経済的にちょっと悪い状況にあったので、クラブが学祭で出店していたライブハウスに自分のギターに値札を付けて置いておいて貰ったんです。数日間開催のうち、僕は1日しか行ってないのですが、僕が不在の日にそのギターを買いたいという人が現れて連絡先を書き置きしていったということでした。その時はそれでああそうですか、ということだったんですが、数日後その人から連絡があって、近くに住んでるから遊びに来なさいということでアパートに伺いました。結果的にはギターは買ってくれなかったのですが、その人はかなりの音楽通で、ロック、ブルースに精通しており、それから頻繁にお付き合いするようになりました。大阪に赴任してご夫婦で関大前に住んでられた押本さんとの運命の出会いでした。
40年くらい前の曖昧な記憶から、音楽を軸に忘備録を書き始めて10年分くらいは書きました。中学〜高校〜大学は学年ごとにキーになるトピックが有って、それを中心に思い出せば時系列に記憶が繋がっていくのですが、大学のクラブ行事への参加頻度が少なくなってきた頃から、この時系列な記憶の感覚が麻痺してきます。不確かな記述が多くなりますが、誤認識をご指摘賜れば幸いです。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
記憶が曖昧なのは変わりありませんが、23歳の年(1983年)は、演奏の録音がたくさん残っているので、無くなった記憶をライブテープがリペアしてくれそうです。
40年くらい前の曖昧な記憶から、音楽を軸に忘備録を書き始めて10年分くらいは書きました。中学〜高校〜大学は学年ごとにキーになるトピックが有って、それを中心に思い出せば時系列に記憶が繋がっていくのですが、大学のクラブ行事への参加頻度が少なくなってきた頃から、この時系列な記憶の感覚が麻痺してきます。不確かな記述が多くなりますが、誤認識をご指摘賜れば幸いです。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
1982年(22歳)は歌の文句ではありませんが、別れの年でした。大学時代ずっとバンドを一緒にやってきたマンドリン松尾くん、フィドル黒澤くん、ベース渥美くんが卒業〜就職するということで、春に関関同プーは活動を停止しました。
活動を終えるにあたり、2月の終わりに梅田堂山バナナホールにおいて「おじん・おばんGrass Concert」というブルーグラスコンサートを有志で企画し、関関同プーも出演しました。バナナホールはまだ営業を始めた頃で、立派なホールであるにもかかわらず、知名度も低くブッキングも閑散としていました。梅田シェーキーズに毎夜出演していたSouth Side Jazz Bandがバナナホールの二階に事務所を構えてブッキングを担当していましたので、僕らの方から手打ちコンサートを提案して、リーズナブルな予算で企画が成立しました。企画段階から梅田シェーキーズやバナナホール隣の樽正で打ち合わせを何度も行ったことが大変懐かしいです。
40年くらい前の曖昧な記憶から、忘備録にと書き始めて10年分くらいは書いたはずですが、まだまだ先は長いです。せめて10年くらい前までは記しておきたいものですが、難航しそうな予感がします。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
21歳(1981年)の4月、本来なら大学4年生のはずですが、すでに学籍が無く単にプー太郎と呼ばれるべき身分かと思いきや、数ヶ月バイトした楽器屋から正社員化のオファーがあって何も考えずにOKしたものだから突然サラリーマンに変身してしまいました。
正社員と言っても、仕事内容はバイトの時とほぼ同じで、いや、バイトの時にすでに社員がやるべき仕事もさせられていたと思います。とにかく、保険や年金や積立が引かれてバイトの時よりも手取りは少なくなって、休暇の自由が無くなりました。社会保障と引き換えに社畜になるというロジックは21歳の若造でも理解できたので、その時点では自己理由以外の解雇が無くなったことを喜びました。これが現在までの僕の人生の中で唯一の月給取り生活でした。
楽器屋と言っても繁華街でレコードも売る店舗なので、営業時間が長く、ほぼ週休1日で、早番あるいは遅番での勤務によって、大学のクラブに通えなくなりました。それでも大学の前のアパートを住処にしていましたので、勤務のない休みの日は楽器を持って大学のクラブに行くようにしてました。この年の新入部員は男女とも実力派揃いでやはり3バンド結成できるくらいの人数になっていました。
忘備録も兼ねて、40年くらい前からのことを音楽を軸に書き綴っています。第一話・第二話・第三話と続けましたが、思い出すのに時間がかかってなかなか筆(キーボード)が進みません。いろいろなことが有り過ぎて全部を書こうとするからダメなんですね。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
20歳(1980年)の時、初めて舶来の楽器を手に入れました。高速神戸駅の近くにあったビンテージギター屋さんで、1970年代初期のGibson RB-250を中古で手に入れました。プー太郎にとって頭金保証人無しのローンは悪魔の囁きでした。たしか小豆島の春合宿でお披露目したように思います。数週間後、ギターの中井くんも同じ店・同じ支払い方法で1960年代のD-18を買いました。
おかしな後日談ですが、完済間近の頃に支払いが滞った時に来た催促書には、品目としてGibsonオートバイRB-250と書いてありました。もちろん完済しましたよ。