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音楽人生忘備録#12Update : 2013/10/27 Sun 11:06

音楽を軸に自分の過去について、いつ終えられるか分からない時系列の忘備録を曖昧な記憶から思い出しながら書いていますが、これが最終話の予定です。バブルが去って不景気な1990年代半ば、関西では忘れられない災害もありました。つい最近のことのように思えますが、これまた記憶が怪しいので不確かな記述が多いです。記憶違いをご指摘賜れば幸いです。

記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。著名人以外はフルネームで書きませんのでご容赦ください。

34歳の年(1994年)は、前年から請けていたカラオケデータの製作(打ち込み作業)がかなり増えてデスクワーク中心の毎日となります。たまに依頼があった催事での演奏には行きましたが、ブルーグラスバンドでの活動はほぼ無しで、ジャズのライブの他は、少し前からちんどん屋さん経由で関わっていた河内音頭での活動が多くなります。

前年末から構えた中津の事務所兼スタジオで下ごしらえをして、河内音頭の山中一平師匠のCDシングル「若き日の坂田三吉・王将」をプロデュースさせていただきました。追加で、僕が英語で作詞作曲していた曲にちんどん屋の林さんに詞をつけていただいた「大阪ミッドナイト・ブルース」も収録しました。また、その延長で、春頃に師匠の一座で大阪梅田堂山のバナナホールのコンサートに出演しました。

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前年から毎年3月には千葉県の幕張メッセで行われていたMac World Expoに単身乗り込んでコンピュータのトレンドを得ていましたが、この年はツアーで来阪していて中津のスタジオで知り合ったフォークの松山隆宏くんのアルバム録音がちょうどMac World Expoと同時期にあるということで、セッションのお誘いを受けて練馬区豊島園のスタジオで、ベースの大庭珍太さんやパーカッションのANSANらと一緒にバンジョーで録音に加わりました。夏にはこのアルバム「のんきや」はリリースされ、レコ発ツアーで岡山と大阪の二箇所をご一緒させていただきました。

この年の夏場は、河内音頭に関わらせていただいたおかげで、盆踊りや奉納公演にご一緒させていただいたのも良い経験となり、良い思い出です。

中津のスタジオ兼事務所では自分の次作ソロアルバムを作るべく、夜の暇な時に籠ってのんびりと録音を進めていました。半分の曲でちんどん屋の小林さんにクラリネットを吹いてもらって録音が完了しました。このアルバムは、数年後上京してからだいぶ経って1997年にトラックダウンしCD-Rの自主制作アルバム「Gypsy In Texas」としてリリースしました。

中津の事務所兼スタジオは、以前より、営業担当者が役職の名目だけで仕事を取ってこなくて僕が設備投資した分の回収が見込めず、給料無しの出勤で無駄な時間を過ごし、僕は個人で請けてるカラオケ製作で食っているような状況でしたので、前述の自分の録音が完了した時点で事務所を解散して機材を自宅に引き上げました。山を賭けた自分が馬鹿ですが、今考えると大変な損害でした。

ジャズ関係の演奏は、国鉄芦屋駅近くのライブハウス・レフトアローンでSouth Side Jazz Bandのトラをほぼ毎月させていただいたり、奈良の若草ホテルのラウンジでディキシージャズのライブをさせていただいたりしていました。若草ホテルの時は、コルネットの池田くん、クラリネットの滝川くんらと休憩時間毎にJR奈良駅駅前の立ち飲み屋に行ったことが懐かしいです。

35歳の年(1995年)、1月17日は忘れたくても忘れられない日です。前年あたりからテレホーダイというNTTのサービスが始まっていたので、コンピュータはNifty Serveに夜通し接続するような毎日でした。1月17日の早朝その時間にもやはりパソコン通信を行っていたところに、それまで経験したことのない大地震に遭いました。大阪府吹田市に住んでいましたが、四角い部屋が平行四辺形に見えるほど、長く強い揺れが有り、什器家具が転倒して家の中は惨状でした。幸い自分も同居の母親も怪我は有りませんでしたが、すぐに停電断水になりました。その時点では電話は通じたまま、ノートブックコンピュータもバッテリで動いたままでしたから、ネット経由で状況を知りました。外に出てみると、ビルのガラス窓はほとんど割れていたり、電柱が傾いていたりしました。昼ごろには電気が復旧してTVを観れましたので、この地震の概要を知ることができました。呆然としました。

地震の後、数日間のことはここには書きませんが、信頼していた方に裏切られたり、自分的には喪失感や絶望に支配されて、どうしようもない日々を過ごしました。

昭和から平成になった時にあった自粛ブームがまたこの地震で復活しました。神戸方面は物理的に難しかったとしても、無事だった大阪でも催事関係がほぼ全てキャンセルとなりました。催事だけではなくライブさえも無くなりました。僕らは演奏機会がゼロになりました。しかしながら、春頃にはボランティアで避難所に慰問演奏にいくお誘いをいただくようになりました。ただでさえ演奏機会が無くなってますので、喜んで慰問に参加させていただきました。大阪から神戸に向けて途中まで運行していた電車に乗って終着で降りて避難所で演奏しました。慰問では、メジャーなミュージシャンもマイナーな僕らも同じ土俵に立って誠心誠意演奏させていただきました。聴いてくださった避難所生活の方々にもたいそう喜んでもらいましたし、普段は交流する機会も無かったいろいろなミュージシャンと知り合えたことも今となっては貴重な体験です。

大阪ミナミのジュリアン・ソレルが移転してアナザードリームとなった頃です。オープン当時はなぜかよく行きました。そして、閉店後は相生橋筋にあったブルーグラス・ラーメンの屋台に朝までよく居ました。大将のご要望でラーメン屋台で楽器を弾かされます。そうすると、ビールかラーメンがサービスになりました。朝まで付き合うと立ち食いうどんで朝ごはんまでご馳走になったことが懐かしいです。今の、かすうどんの向かいあたりです。

夏頃には、旧知のギターの川瀬さんの紹介でアコーディオンの津田さんと知り合ました。18歳の時からの希望であったDjango Reinhardtが演奏したようなジプシージャズを演ろうということでバンドのリハーサルを開始したのがこの頃です。今や大阪でブレークしているらしい崎田くんをサイドギターに旧知の石倉さんをベースにお願いして、僕はマカフェリギターを手にカルテットで練習を重ねました。しかしながら、後述する自分の上京でこのバンドはフェイドアウトしました。(代わりに川瀬さんがチームを組んでミュゼットジャズバンドの元になったみたいです)

音は当時の別の音源に差し替えましたが、後述のTV取材の画面にアコーディオンの津田さんとやっていたバンドが一瞬映ります。

バブルの頃から比べると演奏機会が激減して、ミュージシャンの看板を上げているのも恥ずかしいくらいでしたが、それでもカラオケデータの製作や、たまにある催事の演奏やライブでアイデンティティをぎりぎりキープできました。そんな折、35歳世代を対象とし、パソコン通信をコミュニケーション・ツールとしたNHKの企画でTV番組が1年間ありました。たまたまそのNHK専用のパソコン通信に申し込んでいたのが当選して1年間の番組と共にお付き合いすることになりました。途中、番組として取材をうけたり、オフ会を兼ねた上京しての取材もありました。その頃に今の家人と知り合うのですが、彼女は関東在住とのことで、地震以降仕事や演奏活動の環境が変わってしまった大阪を出て、上京して仕切りなおすのも良いかなと思うようになりました。熟考した結果、彼女と結婚(法的には事実婚)し、翌1996年1月に全てを捨てて上京し東京練馬に居を構えました。起業し4月にはこのサイトを開設していますので、続きはブログを最初からご覧ください

ブログに書いていない後日談を少し書きます。

上京してすぐの頃、たぶん3月末、バイオリンの大矢さんから、大阪駅前の新しい地下街・ディアモールのオープンの催事の演奏で来て欲しいとの連絡があって急遽帰阪しました。ギターの畑さん、ベースの北市さん、と共に僕もギターのカルテットでStephane Grappelliのようなジャズを演奏しました。この演奏がその年の唯一の演奏らしい演奏でした。

上京の後、ミュージシャンとしての仕事を続けるかどうか迷いましたが、まだ人脈も少ない状況で食っていけるわけは無いと考え、当時認知されだしたSOHOという形の自宅での製作関係事務所を起業しました。当初、ネット環境を駆使して仕事を取るための営業を行うため、そしてITスキルを上げるため、数年間はバンド活動をしていません。(とは言いながら箱根フェスには毎年ぶらっと参加しました)

1998年にしびれを切らして、バンジョーの木村くんをフィーチャーしたエルニ〜ニョというブルーグラスバンドにフィドルで参加したのが、演奏復帰の第一歩です。ただしアマチュアのブルーグラスバンドです。

エルニ〜ニョのベースマン藤村くんの披露宴を兼ねたお座敷フェス(たぶん2001年)で声を掛けられて参加したのがRat Orchestraでした。(2005年解散)

それらとは別の僕の音楽人生を変えたトピックがありました。2000年の某日深夜2時くらいに今から行くから泊めてくれ、ってアコーディオンの津田さんとギターの川瀬さんが泊まりに来ました。翌日彼らが発つ前に我が家でちょっとジャムセッションしました。その時に数年ぶりにちゃんとギターを弾いたのがきっかけで、僕はジプシージャズを再開することになりました。18歳の時以来の念願の弦楽器クインテット、Yellow Django Revivalを2003年春に結成しました。

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