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音楽人生忘備録#11Update : 2013/10/26 Sat 14:58

音楽を軸に自分の過去について、いつ終えられるか分からない時系列の忘備録を曖昧な記憶から思い出しながら書いています。バブル期絶好調だった1980年代が終わり、自分的には激動の1990年代の記述に入りました。つい最近のことのように思えますが、これまた記憶が怪しいので不確かな記述が多いです。記憶違いをご指摘賜れば幸いです。

記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。

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31歳の年(1991年)は、前年末から製作に入っていたTiger CatsのCDアルバム「Race Is On」が初夏に完成し、CD販促のための遠征を何度か行うなど、演奏活動が充実した年でした。

The String Bandというバンド名で永らく続けていた吹田市江坂のレストラン・カーニバルプラザでの週一の準レギュラー演奏もマンネリするぐらいルーチン化していました。マンネリを解消するためか、準レギュラーとして別の日にちんどん屋さんからトリオが派遣されるようになっていました。このちんどん屋さんのトリオでもトラをたまに頼まれるようになっていました。同じく交野市津田のレストラン・フェストでの演奏も細々と続き、レギュラー仕事の合間を縫って催事で演奏したりライブしたりTiger Catsでツアーしたりという日々を過ごしました。

この頃、アメリカのDeering社が販売を開始したCrossfireという電気バンジョーを入手しました。たぶん日本で最初に僕が弾いたと思います。超初期型で現在は無いモデルで、しかも僕は6弦バンジョーを普段弾いていますので、ギターバンジョーモデルを買って、イイダ楽器の6弦ネックを加工したものにコンバートしました。薄いソリッドボディにバンジョーのドラムヘッドを張れるような設計になっているスグレモノです。電気回路はアクティブPU2発をミックスするような感じになっていましたが、電池のサプライが面倒なのと、PUは一つでいいので、ディマジオのハンバッカーに換装してパッシブに改造しました。この時点ではBela Fleckはまだこの楽器を使ってなかったと思います。以後、Tiger Catsのライブはこの楽器で演ることになりました。

Tiger Catsのアルバム販促の旅は、まず、岐阜で開催されていた時山ブルーグラスフェスティバルにゲストで呼んでいただきスタートしました。演奏はそこそこ成功してCDも売れましたが、プラグインしてMIDIでコントロールするバンドだったためにオフステージで他の皆さんとジャム・セッションすることも無く、地味なフェス参加となりました。

この年も兵庫県三田市の柴田牧場で開催された8月の宝塚ブルーグラスフェスティバルは、絶好のCD販促の機会でした。CDのトラックダウンを担当してくださった中村さんにPAオペレートをお願いして、フェスのステージで演奏しました。また、この時の演奏はラジオ関西の特別番組でオンエアされたようです。馬場を会場にしたこの夏フェスは日陰が全くなく、暑かったことを強烈に覚えています。高齢化した今なら、熱射病患者が多発していたでしょう。

8月の最終週末は箱根ブルーグラスフェシティバルにTigher Catsで参加しました。この時の映像が奇跡的に残っていました。

10月5日、今はもう無い神戸元町のライブハウスShaggyで、Tiger Catsはライブをしました。

秋には浜松や東京にTiger Catsで遠征しました。
浜松では高校時代に大学生のお兄さんとしてブルーグラスを少しご教示いただいた矢崎さんに15年ぶりにお会いできました。東京は楽器フェアを観に行った覚えがあるので11月頃でしょうか。銀座ロッキートップで演奏しました。

Peter Rowan

この頃、僕はちんどん屋さんとお付き合いが結構有り、催事での演奏をたくさんご依頼いただいたり、毎年の忘年会に招待されていましたが、お楽しみはRagtime Kidsでのライブでした。Ragtime Kidsは、僕以外のメンバーがちんどん稼業で忙しい中でも、千日前に移転したジュリアン・ソレルで月例ライブを行っていましたが、中ノ島公園の夏場のビアガーデンでフル編成のディシキーバンドとして演奏した時の録音が残っています。

32歳の年(1992年)はPeter Rowanの14年ぶりの来日ツアーのサポート(京都のみ)で始まりました。

そして、年初に手に入れたTASCAMの8トラックのカセットテープマルチトラッカーを使って自身のソロ・バンジョー・アルバムの製作にとりかかりました。Tiger CatsのCD製作で覚えたMIDI打ち込みをベースにして、これまで身につけてきたバンジョー奏法のやバンジョー音楽の集大成を作るつもりでカバーやオリジナル曲を録音しました。目出度く晩春には製品になりました。今回はカセットテープがマザーなので音質的なハンデが少しはありましたが、日本人で初めてのCDソロアルバムのリリースとなり、この年の米国シカゴ・トリビューン誌のベスト10ブルーグラスアルバムにも入れていただきました。我ながら快挙だと思います。

夏場のブルーグラスフェスのシーズンにはCDの販促もありますから全て参加したことと記憶しています。ただ春先に新装の大阪駅の催事で演奏したのがTiger Catsとしては最後の演奏となりました。メンバー各人の仕事や生活のベクトルが違う方向に向いていたのがその理由です。フルタイムで演奏していたマンドリンの宮崎くんと僕はこのシーズンも一緒に演奏しましたが、その後、音楽的な理由で一緒に演奏する機会はほとんど無くなりました。

Macintosh PowerBook 140

前の年(1991年)、Bela Fleckが自身のバンドFlecktonesで来日し、江坂のブーミンホールでコンサートを演った時に、リハから打ち上げまでずっと同席させていただきましたが、その時にBela Fleckが発売されたばかりのApple社のPowerBook 170を使って、(たぶんHypeCardスタックで)スケジュールを管理したり、モデム+国際電話回線で事務所にメールしたりしているのを目の当たりにしました。国内ではNECやEPSONのラップトップが販売されていましたが昔ながらのMS-DOS画面でとっつきにくく、日本未発売だったスマートな筐体で画面もなんともHIPなPowerBookはそれ以来僕のあこがれとなっていて、コンピュータなど使ったことも無いくせに、この年の年末にPowerBook 140 4MB/40MBの中古を大枚35万円出して購入しました。
コンピュータの操作を全く知らないまま、しかも当時主流だったNECのPC98のMS-DOSとは全く違う操作体系であったAppleのSystem 6を搭載したマウス操作主導のコンピュータを買ってしまい、Mac PowerやMac Japanという雑誌を見ながら少しずつ操作を覚える毎日でしたが、ある日、Tiger CatsのCD製作でお世話になった中村さんがMacintoshを使っているのを思い出して、一晩お宅にお邪魔して徹夜で操作方法を伝授していただきました。また、その時にHyperCardやResEditの概念もご教示いただき、一夜にしてマックのエキスパートが誕生しました(言い過ぎですが、)。

年も押し詰まった頃から、ちんどん屋さんの関係で河内音頭に興味を持ち、音頭を取るわけではありませんが、楽師として音頭教室の末席で節やノリを勉強させていただきました。

33歳の年(1993年)はブルーグラスバンドでの活動はほぼありませんでした。春には、長い間(8年以上)準レギュラーで演奏したカーニバルプラザを辞めることにしました。しかし、そのバンドでは交野市津田のレストラン・フェストでのエイギョウは続けました。また、Tiger Catsで導入して覚えたMIDI打ち込み技術を使って、三人とは思えない豪華な演奏と三人分のギャラというのがクライアントにウケて、その後、催事での演奏に引っ張りだこになりました。Naughty Cowboysと名乗ったそのバンドがプロモーション用に録音したデモテープから数曲貼りつけておきます。

この頃には数年続けてきたMIDIの打ち込み環境をRoland MV-30からマックに移しました。(そもそもマックはPerformerというMIDIシーケンサーソフトを使うためにミュージシャン御用達でした。)

バブルが少し前にハジケて世の中の不景気な感じが身に沁みて来て、催事での演奏も心なしか少なくなったように思っていた頃、カラオケというものがテープからデータに変わってきているという耳寄りな情報を得ました。今では当たり前ですが、当時はそのシステムを通信カラオケと呼びました。そのデータを作る(打ち込む)仕事の需要がかなりあるということを知り、仕事を一気にそちらにシフトしました。この年から大阪を離れる数年間は、演奏よりもカラオケのデータ打ち込みで生計が成り立っていたかもしれません。

アメリカに行く友人に日本で未発売だったカラー液晶のPowerBook 165cを買ってきてもらいました。当時、日米のマックの価格差は倍くらいありましたので、大変うれしいお土産でした。日本未発売ということで、英語版のSystem 7.1がインストールされていましたが、国内では日本語版のSystem 7(漢字トーク7)が発表される1年も前でしたので、ResEditを使ってSystem 6の日本語リソースを取り出し、自力で日本語化したことが懐かしいです。(System 7.0.1はGomTalkという機能拡張で日本語化できたのですが、7.1では使えませんでした。)

秋には、今は懐かしいパソコン通信を始めました。有料のNifty ServeやPC-VANの課金や電話代に使うお金がまだ勿体無いと思っていた頃なので、無料の草の根ネットと呼ばれていた個人運営のBBSに出入りするようになります。大阪でCM音楽の作編曲家をしておられた浦田さんが運営するMac Radyoというミュージシャンや業界の方しか利用していないBBSの常連となりました。2400bpsという今からは信じられない低速で文字のみのコミュニケーションを楽しんでいました。

とは言え、South Side Jazz Bandのトラで芦屋のレフトアローンというレスランでのライブに毎月出演するようになっていましたし、ジャズやブルーグラスのセッションや催事での演奏も少しは演っていました。

年末も押し迫り、知人の紹介で中津に音源や広告の製作をする事務所を構えました。手持ちのTASCAMの8trマルチトラッカーやデジタルエフェクターの他、手持ちのビンテージ楽器をいろいろ処分してMacintosh IIfxやらPostScriptプリンタのLaserWriter II NTX-Jを設置しました。営業が二人で僕が製作という三人で事業を始めようということでしたが、実際にやった製作はほんの数件で、暇な夜は録音機器とコンピュータを設営したスタジオ代わりの事務所で自分のためのデモ録音をよく行いました。

いずれにせよ、この年から演奏機会はかなり減りました。

続く

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