15969523 visitors have come to this site since 26th April 1996.
音楽を軸に自分の過去について時系列の忘備録を曖昧な記憶から思い出しながら12話も書きましたが、その時どういう音楽を聴いてどういう演奏をしていたかという肝心のことを書き忘れました。なので、番外編として駆け足で辿って行きたいと思います。
祖母の家に有った森進一のEPを繰り返し聴いたのがオーディオセットを自分で操作した最初の記憶です。12歳(1972年)の頃のことだと記憶してます。少し後に、父親が見栄張って買った4chステレオ(前だけではなく後ろにもスピーカが2つ有った)と一緒に置いてあった世界映画音楽全集をたまに聴きましたが、買ってもらった天地真理のLPの方をけっこう聴きました。
1973年(13歳)の時に叔母がラジカセを買ってくれて、ラジオの音楽をよく聴くようになりました。同級生でフォーク好きが居ましたので、同じようにフォークを聴きました。カセットテープは中学生にはまだ高価だったので数は増えませんでしたが、エアチェックしたり、友達がレコードをダビングしてくれたのでそれをよく聴きました。最初はよしだたくろうが多かったですが、後にはSimon And Garfunkelのほとんどのアルバムをカセットテープで聴いていました。全く弾けないまでもフォークギターを触ってた頃なので、Paul Simonのギターをたくさん(気持ちの上で)コピーしました。
14歳(1974年)の頃、バンジョーやブルーグラスと出会いました。世界映画音楽全集の中のFoggy Montain BreakdownやKBS近畿放送の深夜番組でエアチェックしたブルーグラス曲を聴いていました。バンジョーはまだ持っていなかったので、ギターをバンジョーの調弦にして練習していました。
15歳(1975年)の春にバンジョーを買ってもらって本格的に弾き始めました。この頃にはすでに基本的なスクラッグスロールは弾けていました。叔母が買ってくれたキングレコード編集の2枚組のコンピレーションとCountry Gentlemenのデビュー盤(洋盤)はほんとに擦り切れくるくらい聴きました。コンピレーションにはRed Allen、Frank Wakefield、Ralph Stanley、Don Reno等が含まれており、今考えると最初の最初からマストな音源を聴いていたことになります。
16〜17歳(1976〜7年)の高校時代は、大学生のお兄さんや違う学校の同級生の友達と、レコードを貸し借りして膨大な量のブルーグラスを聴きました。特に大学生のお兄さんは洋盤の新譜を持っていましたので、ほぼリアルタイムでアメリカで流行っていたブルーグラスを聴いていたことになります。Country GazetteやNew Grass Revival、Buck White and Down Home Folks、Seldom Scene、J.D. Crowe and the New South、Old And In The Way、Boone Creekなどを新譜で聴きました。またKentucky Colonelsはレコードだけではなく、貴重なライブテープの数々を高校生の時に聴いていました。Shenandoah Cut-UpsやMike O’Roak and the Freeborn Menなどという渋いところも聴きました。自分で買うのはCountry Gentlemenの古いアルバムばかりでした。Eddie Adcockのバンジョーをたくさんコピーしていました。Alan Mundeのタブ集でバンジョーを練習することもありました。一番楽器を触っていた頃です。
マンドリンやドブロ、フィドルもこの頃、高校時代には触りだしています。
18歳(1978年)は大学入学の年ですが、入学前はFlatt & Scruggsのアルバムがたくさん再発されて、全て購入しScruggsの教則本を見ながら正統的なバンジョー奏法を練習していました。入学後も組んだバンドとともにその路線で演奏しましたが、ギターの中井くんがなかなか音楽通で、僕の守備範囲では無かった70年代のアメリカン・ミュージックをいろいろ聴かせてくれました。ウッドストック系のシンガーソングライター物はかなり気に入りました。中井くんは浪人時代はフュージョン小僧だったらしく、他にもジャズギター物をいろいろ聴かせくれました。Carltonみたいなのはあまり好きにはなれませんでしたが、Kenny BurrelやGrant Greenのアルバムを借りて気に入りました。Charlie ChristianのLPBOXセットも借りました。中でも決定的だったのがDjango ReinhardtのDjangologyというLPでした。当時はこのLPしかDjangoのレコードは出ていませんでした。まだその時はジャズギターを弾くことは無かったので、バンジョーでDjangoやChristianのソロをよくコピーしてました。
20歳(1980年)の頃は、大学で組んだバンドが垢ぬけてきてポップな曲を演奏するようになったので、Country GazetteやSeldom Sceneをよく聴きました。Banjo Kid Picks AgainというAlan Mundeのソロアルバムを気に入って、バンジョーをコピーすることもよくありましたが、以前から個人的にトライしていたジャズギターフレーズのバンジョーへの組み込みがようやく役に立ってきました。
盟友の中井くんが聴かせてくれたのはジャズギターばかりではありませんでした、T-Bone WalkerやB.B. Kingなどのアーバンブルースを紹介してくれました。ブルーグラスのバンジョープレイヤーはチョーキングを多用したブルージーなプレイをすることがよくありますが、本物のブルース・ギターを聴いてからは、バンジョーはなんかちょっと違うと感じました。なのでブルースギターの喋り方をバンジョーで覚えました。バンジョーで弾くブルースには今でも自信があります。
21歳(1981年)に大学で組んだバンドは、関学や同志社の同志を加えて関関同プーというバンドになり、レパートリーのマテリアルをブルーグラス以外に求めることが多くなりました。その時に、これまで中井くん経由で吸収していたブルーグラス以外の(主にギターの)奏法が役に立ちました。
22歳(1982年)くらいからは、4弦バンジョーを弾いてジャズバンドで演奏する機会が増えましたので、かつて高校時代に覚えたマンドリンの運指を応用して、当初は4弦バンジョーをマンドリンのオクターブ下に調弦して対応してました。そのうちにマンドラと同じ本来のテナーバンジョーの調弦で弾けるようになりました。毎晩のように大阪東梅田のピザハウス・シェーキーズに青田でシカゴスタイルのジャズ演奏を聴きに行き、曲とコード進行を覚えました。
NHK FMの企画番組で戦前の日本のジャズソングを1年くらいオンエアしたことがあります。それをエアチェックして、アメリカの同時代のジャズと共に聴いて楽しみました。
1980年代前半に一時期、後輩たちとClassic Country Gentlemenの完全コピーバンドを組んでいたことがあり、その時は狂ったようにEddie Adcockのバンジョーをコピーしまくりました。高校時代にすでにコピーしていた曲でもさらに深く掘り下げて、マインドの部分まで到達できたと思います。
20代半ば(1980年代半ば)、プライベートではロックバンドを組んでリハーサルをしていましたが、テレキャスターに自力でストリングベンダーを実装したので、Clarence Whiteやそのフォロワーのベンダー奏法を練習しました。また、テレキャスターを弾く名人たちの演奏にも心を惹かれ、Steve ClopperやAmos Garretのソロをたくさんコピーしました。聴く音楽はThe Bandが多かったです。今でも全アルバムを持っています。この頃知り合ってロックバンドを一緒にやっていた押本さんには、白黒問わずかなり多くの上質なアメリカン・ミュージックを教えていただきました。前述の中井くんと押本さんは僕の耳の師匠と言うべき人です。ブルーグラスにもジャズにも無い、ロックの開放感や絶頂感を経験できたことは、良い経験でした。
ディキシージャズでテナーバンジョーを弾く機会がめっぽう増えましたが、同時にバンジョーではちょっと場違いかなというような現場でのジャズ演奏の依頼もありました。先輩方のギターも弾いたほうが仕事は増えるよというアドバイスの下、F穴ギターを手に入れて弾くようになりました。予てからのアイドルのDjangoはもちろんですが、Teddy BunnやFreddy Greenのリズムギターを参考にして演奏に望みました。ただDjangoライクなソロを弾ける機会がなかなか無くて悶々としてました。曲はEddie Condonのオールスターズを聴いて色々覚えました。1920〜30年代のジャズのBOXセットを買いまくったのもこの頃です。
1987年にリリースされたThe Southern Trainのデビューアルバムでバンジョーを数曲弾かせていただきました。Eddie Adcock由来のギャロッピングやシングルストリング奏法、デルタブルースのボトルネックギターをバンジョーに応用したスライドバンジョー、自作のバンジョー用パームペダルを使ったペダルスチールライクな奏法、など、それまでに体得したメインストリームではないバンジョースタイルを文句も言わずに試させてくださったリーダーの村上さんに感謝です。
なぜかジャズバイオリンにハマって演奏はしないのですがCDやレコードを買いまくりました。
1988〜1991年はTiger Catsというブルーグラスバンドでの活動が多くなりますが、演奏マテリアルはブルーグラスに限定せずにフュージョンからハードロックまで多岐に渡りましたので、この頃は音の鳴るものは何でも聴くというような感じでした。バンジョー・スタイル自体はそんなに深く考えずに、楽曲に合った演奏を心がけました。基本的にはThe Southern Trainのアルバムで弾かせていただいた実験的なバンジョースタイルの延長でした。
32歳の時(1992年)にリリースしたバンジョーのソロアルバム「SHOW BY BANJO」ではやりたことを全てやりました。バンジョー演奏に関しては全てここで燃え尽きてしまいました。以後、ストイックにスタイルを精査したりすることはありません。弾く楽器はフィドルでもギターでもバンジョーでも自然体で関わるようになりました。
1995年、上京前夜、アコーディオン+ギター×2+ベースという編成でジプシージャズ演奏を試みましたが、リハーサルだけに終わり、急に決めた上京が理由で僕が勝手にフェイドアウトしました。
ずっとブランクがあって、38歳の時(1998年)にブルーグラス・フィドルで演奏に復帰しました。フィドル自体は18歳の時からたしなむ程度に触っていましたが、音程も弓さばきも全く素人でしたしバンドで演るのは初めてということで、古いブルーグラスを聴いて歌のバッキングまで練習しました。けっこういいところまで弾けるようになりましたが数年後バンドが解散してからはフィドルをちゃんと弾いていません。
2003年はDjango Reinhardt没後50年ということでいろいろな企画がありました。企画の話は省略しますが、前年にYellow Django Revivalを結成して、18歳以来の念願であったギター×3、バイオリン、ベースという編成でのジプシージャズ演奏を開始しました。
以降は省略します。