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音楽人生忘備録#10Update : 2013/10/23 Wed 15:03

音楽を軸に自分の過去について曖昧な記憶から時系列に忘備録を書きはじめたらデスマーチ状態になりましたが、バブル期絶好調だった1980年代の終わりはライブもエイギョウも自身のバンドも熱かった時代です。しかしながら、これまた記憶が怪しいので不確かな記述が多くなります。記憶違いをご指摘賜れば幸いです。

記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。

兵庫県三田市柴田牧場で開催された1988年秋の宝塚フェスの短い映像がありました。ギター金沢さん、マンドリン前田さん、フィドル赤澤くん、バンジョー僕です。

1988年秋、たぶんこの頃だと思いますが、知人のギター&バンジョー奏者清水さんが任されていた休日のプールバーをお借りして、以前よりリハーサル専門で楽しんでいたロックバンドのプライベート・ライブ・パーティーを行いました。JCペニーという先輩方のカントリーロックバンドと一緒に家族ぐるみで楽しみました。

1990

年末、入院中の昭和天皇の様体が思わしくなく、歌舞音曲はけしからんというわけで、演奏の仕事が軒並みキャンセルになりました。中には、辛うじてキャンセルを免れて早朝現場に集合してから中止を申し渡されたこともありました。喪に服すわけでもないのに演奏をしてはいけないという風潮が、業界末端のミュージシャンにとって死活問題になってました。

29歳の年(1989年)、この数年は日本はバブル絶頂期でした。イベント演奏の依頼も多く、僕のような業界末端のミュージシャンでも頑張ればフルタイムで演っていけるくらいの需要があった時代です。しかしながら、前年末から続いた歌舞音曲の自粛ムードが、正月の松が取れたその日に、ムードではなく全国民が喪に服さざるをえない状況になりました。昭和天皇がご崩御されたのです。この年が平成元年となりました。大喪の礼が終わって一息つく春頃までは一切の演奏仕事は無かったように記憶しています。

1989-gk-2

前年、私的にバンドで実用化したデジタルシンセギターのノウハウをバンジョーに転用できないかを模索していましたが、Roland社はギターそのものではなく、ギター用のアタッチメントの形で、シンセのトリガーをギターの弦振動から拾うピックアップを販売していました。GK-2というその無骨なユニットをバンジョーにマウントしてみました。それだけではシンセサイザーにはならず、1Uの専用音源モジュールを接続します。
ただ、僕のバンジョーは6弦ですからギター用のピックアップを使いやすくなっていますが、バンジョー特有の5弦の高い音をうまくトリガーにできませんでした。そこで、Roland製品に明るいバンジョー弾きの中村さんに相談して、音源モジュール内の回路を若干変更していただきました。この改造でバンジョー専用になるとギターで使う場合に問題がでますので、ギター<>バンジョーの切り替えスイッチも付けていただきました。

たぶんですが、これは世界初のシンセバンジョーの実用化では無かっただろうかと思います。これ以降の数年、実際にステージで使用しました。

1987年に結成してリハを続けていたTiger Catsで、シンセバンジョーのみならず、僕の実験的な演奏を試しました。まだ春の時点ではマンドリンの宮崎くんは体調不良で戦列を離れていましたが、昭和天皇崩御ショックからほとぼりが醒めた5月の連休前に復帰し、5月3日、Tiger Catsとして初めてのライブを交野市津田のレストラン・フェストで行いました。

1989年の夏の宝塚ブルーグラスフェスティバルには、Tiger Catsで初めて出演しました。この時に持参したシンセ関係の機材はかなり注目されたようで、東京のマンドリンの加藤さんはその時の話を今でもしてくださいます。

長い間記憶にありませんでしたが、同フェスで、マンドリンの宮崎くんの大学の先輩、ギター細谷さんのバンドのトラにも誘われてステージにあがった時の録音がありました。

吹田市江坂のカーニバルプラザや交野市津田のフェストでのトリオ演奏はコンスタントに続けていましたし、South Side Jazz Bandの事務所やちんどん屋さんの事務所の仕切りのディキシージャズの演奏や、京都市交響楽団に差し込まれてのボリショイバレエの楽旅など、相変わらずの毎日でした。

1989年秋、Tiger Catsで、大阪の御堂筋パレードに初めて出演しました。出演といってもコーラ屋さんがスポンサーの幌馬車に演奏しながら乗るだけの仕事でしたが、ポイントポイントで歌伴をしました。幌馬車での生演奏では歌伴としては貧弱なので、前もってカラオケをミナミのスタジオで録音したのがこれです。当時のキャッチI Feel Cokeが曲名になった歌です。歌は佐藤某が歌ったのか他の歌手が歌ったのかは記憶に定かではありません。(僕等は歌ってないはず)

御堂筋パレード用に他にもアメリカ民謡モノのカラオケを何曲も録音しましたが、ついでにブルーグラスの有名インストも録音しました。奇跡的にテープが残ってました。

明けて30歳の年(1990年)は大阪中が盛り上がります。EXPO’90と銘打って国際花と緑の博覧会、通称・花博が大阪市鶴見区で開催されたからです。在阪の音楽家、芸人が総動員されたイベントでもありました。僕はまず開会前日から現場に行ってリハーサルを行いました。開会から2週間ほど関西電力のパビリオンで毎日ショーを3回ほど行う仕事でした。ちんどん屋さんのキッチンクッカーズというユニットにバンジョー弾きとして加わっての演奏でした。当時から原発反対で電力会社の仕事は請けないという硬派な方がちんどん屋さんに居て、その方のトラでの参加でした。
実は、このパビリオンのステージはパビリオンの外向きに作られていて、目の前30mほどのところを花博名物のウォーターライドという会場を一周する一種の空中トロッコが横切っていました。開幕2日目の朝のステージで、司会者前説の時にウォーターライドが落下するという歴史的な惨事が起きました。目の前で一部始終を見ました。もちろんのこと大変な騒ぎとなり、その日の演奏は中止になり、そのまま長い間この仕事は無くなり、夏前に演奏が復活しました。

パスを貰って毎日花博に出入りしましたが、大阪市内を通って公共交通で会場に行くと時間がかかって疲れてしまうので、吹田市の自宅から毎日タクシーで現場入りしてたことを思い出しました。バブル期ならではの思い出です。

花博では、他にもRagtime KidsやSouth Side Jazz Bandのトラでバンジョーを演奏しました。毎日がジャズフェス状態でした。

この年、Tiger Catsはベースの藤原くんが脱退し、後任が見つからないままでしたが、数年前よりより個人的に研究していたMIDIシーケンサーをバンドに導入して、ベースとドラムをサウンドに加え、さらに幅広いリズムに対応できるようになりました。

この時、大枚叩いて導入したMIDIシーケンサーは、MIDIワークステーションと名付けられたRoland社のMV-30という音源内蔵の機種で、これ一台でカラオケやMIDIシンクが完結するというスグレモノでした。同時にMIDIミキサーという機械も導入し、各メンバーの楽器のライン出力のミキシングをMIDIシーケンサーと同期させました。また、エフェクターもパッチもMIDIで同期させました。楽器演奏は打ち込みではなく生演奏でしたが、世界で最初で最後のテクノブルーグラスバンドとなりました。

このMIDI化されたTiger Catsでも花博のグンゼHolidayライブに5月26日と8月11日の二度ほど出演しました。

大阪の中ノ島公園での特設ビアガーデンにてバンドで演奏する機会もありましたし、交野市津田のレストラン・フェストでは毎週末の店内演奏だけではなく春秋の連休にイベントを組んで本格的なライブ演奏をさせてくれました。

バブル現象は花博だけではなく巷間でも感じられました。ちんどん屋さんのジャズバンドRagtime Kidsがエイギョウだけでは無く、ライブを始めたのはこの頃です。ミナミのジュリアン・ソレルというブルーグラス系のライブハウスの他、梅田の阪急東通りの火事跡に期間限定で営業していた屋台村Nang Jangでも普段のエイギョウ演奏ではないストイックなトラッド・ジャズを演奏しました。

バブルのムードに流されるまま、花博が終ったこの晩秋から、阪急中津の高架下に今もあるSTUDIO THE GARAGEにてTiger Catsのアルバム録音に入りました。まだまだ一般人がデジタル録音を利用できる頃ではなく、コスト優先で時代柄8トラックマルチによるオープンリールへの録音でした。(コンピュータとハードディスクを使った録音方法など存在しなかった頃です。)ライブ演奏ですでにMIDIで演奏がコントロールされていますので、当時のポップスグループと同じようにMIDIでベーシックトラックを録音しておいて、ウワモノを重ねていく方法で、年内には全トラックの録音を終えました。

年明けて、31歳になった1991年、いよいよTiger Catsのアルバムのトラックダウンを行うことになり、当時はRoland社勤務でサウンドメイキングにお詳しい先輩の中村さんにSTUDIO THE GARAGEまでミキシングエンジニアとして同行していただいたのですが、高架下での録音ということもありノイズが目立つマザーテープであることが分かりました。それで急遽、Roland社の住之江のスタジオにて1インチのテープに全編をダビングしてノイズを消しながらミックスや差し替えを行うことになりました。週に一回か二回、中村さんの勤務終業後にスタジオにお邪魔して最終電車まで作業していただくということを1ヶ月ほど続けました。リズムトラックは契約ミュージシャンが作ったRoland社秘蔵のサンプル音に差し替えていただき、非常にシャープなサウンドになりました。(週末はそのまま貫徹で夜明けまで作業して堺の市場に天ぷらを食べに行ったことを覚えています。)

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プロデューサ不在のアルバム制作でしたので、ミックス作業の途中で意見が衝突することも多々有りましたが、なんとか全曲のミックスをDATに収めることができました。ところが、ミックスとマスタリングは別の作業であるということを知り、当時新しく導入したデジタルリマスタリングの機械があるというので、吹田のSTUDIO YOUでマスタリング作業を行いました。高校時代から友人、太田くんの妹さんが絵が上手いと聞き、ジャケットの絵を描いてもらいました。初夏にはプレスが終わってパッケイジされたCDアルバムがあがってきました。LPでは1960年代から何枚かリリースされていましたが、このTiger CatsのCDアルバム「Race Is On」は日本人ブルーグラスプレイヤーが初めてリリースしたCDアルバムとなりました。

(続く)

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