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忘備録も兼ねて、40年くらい前からのことを音楽を軸に書き綴っています。第一話・第二話・第三話と続けましたが、思い出すのに時間がかかってなかなか筆(キーボード)が進みません。いろいろなことが有り過ぎて全部を書こうとするからダメなんですね。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
20歳(1980年)の時、初めて舶来の楽器を手に入れました。高速神戸駅の近くにあったビンテージギター屋さんで、1970年代初期のGibson RB-250を中古で手に入れました。プー太郎にとって頭金保証人無しのローンは悪魔の囁きでした。たしか小豆島の春合宿でお披露目したように思います。数週間後、ギターの中井くんも同じ店・同じ支払い方法で1960年代のD-18を買いました。
おかしな後日談ですが、完済間近の頃に支払いが滞った時に来た催促書には、品目としてGibsonオートバイRB-250と書いてありました。もちろん完済しましたよ。
僕はすでに学籍が無かったのですが、4月になると名目上3年生で、ブルーグラス同好会の幹部になりました。その時、ひとつ先輩のバンドは千里マウンテンボーイズのままで隠居しましたので、世襲名のSouthern Mountain Boysが空き家ということで、末広がりの八代目を勝手に継がせていただきました。そして、2年間ずっと懸案事項だった専任ベーシストを、1つ下の学年の古里さんにお願いしました。僕らの同級生のギター多田さん、マンドリン山谷さん、バンジョー辻さんからなるLady Birdという女子バンドでも古里さんはベースを弾きましたが、本来は、彼女の同級生のバンジョー植田さんとBluegrass Bellsというバンドでギター&ボーカルを担当していました。
新入生は女子を含めてたくさん入部し、またしても3バンド構成できるほどになりましたが、学年に必ず一人は居る破天荒な人間がこの学年には居なかったと記憶しています。
僕が大学を辞めたのを親が知って、そうなら家を出て行くか堅気の仕事をしろという選択を迫られたので、家を出ることにしました。今から考えるとたった8年しか住んでいない家ですし、常時誰もいない家でしたから出たところで何の感傷も無いはずなんですが、当時は一大決心でした。アパートを探す間、ほんの数日ですが、バンジョーの福嶋くんの阪急淡路の下宿にお世話になりました。ギターの中井くんがよく出入りしていた喫茶店で、大学前で最も田舎臭かったGENというお店が有りました。(王将の向かいです。)その二階の部屋を中井くんに紹介してもらいました。陽の光が全く入らず、風呂無し水場トイレ共用板廊下三畳一間家賃8000円というサルマタケの生えそうな部屋でしたが、プー太郎にはちょうど良かったです。大学を辞めてから大学から徒歩1分のところに引っ越して来ようとは、まさか誰も思いませんでした。
この頃、ギター赤木さん、バンジョー有田さん、マンドリン谷村さん、フィドル祇園さん、ベース久永さんからなるPooh Grass Boysというバンドがよく関大のクラブのたまり場でリハーサルしておられましたので、親しくしていただいて、ライブのトラもたまに回してくださいました。
梅田丸ビル裏のテキサスというステーキハウスや東梅田のシェーキーズでスポットのライブがぼちぼち入りました。今では当たり前のチャージバック制ではなく、演奏ギャラとして固定額をいただきましたので、数千円と少ないながらも餓死しないくらいの収入にはなりました。(僕がチャージバックでライブしたのは東京のロッキートップが初めてでした。飲食店のライブは飲食料でお店が儲かるので固定ギャラが当たり前だとずっと思ってました。)
国鉄大阪駅のガード下に今でも有る新梅田食道街の大阪グリルでは、当時日替わり定食が200円くらいでした。ライブ前に食事に行くと、知り合いのブルーグラス・ミュージシャンに必ず遭いました。みんなお金が無かったから安く食事が出来る店をよく知ってました。
夏頃だったと記憶してますが、先輩の紹介で、梅田チャーリーブラウンの支店として豊中でファミレス・スタイルで営業していた豊中チャーリーブラウンのPAを担当することになり、夜は可能な限り毎日出勤することになりました。かなりライブな箱で生演奏をうるさくない程度にミキシングするのは大変難しかったのです。ほんの数ヶ月ほどの間ですが、ホールのPAについていろいろ勉強出来ました。(秘密でライン録音したライブもいくつか有りましたが、今見当たりません。)
この年の第9回宝塚ブルーグラスフェスティバルでどういう演奏をしたのかをさっぱり記憶していませんが、マンドリンの松尾くんが自家用車を買った頃なので、同乗して三重や大山のフェスにも行ったと思います。友人の紹介で楽器屋のバイトを始めたのもこの年だったと思います。そのせいか、合宿のこともほとんど覚えていません。
秋に出演した豊中チャーリーブラウンでの演奏は、自分がPAもやったので綺麗にライン録音出来ました。泣きながら弾いている古里さんのベースが素晴らしいと今更ながら気付きます。
このライブ録音の頃はまだ普通の5弦バンジョーを弾いていたようですが、この秋にはペグヘッドの真ん中にもう一つ穴を開けてペグを追加して6弦バンジョーに改造しました。
恒例の学祭は、僕らが幹部として例年通りピザハウス兼ライブハウスを運営しました。学内外のバンドが多数出演したと思います。
前年に筆を下ろした着ぐるみ被っての子供ショーは、(たぶん予算の問題が大きかったと思いますが、)僕らSouthern Mountain Boysの三人がよく雇われました。ギター中井、マンドリン松尾、バンジョー僕、ベース石倉に足して歌のお姉さんのユニットでベアーズを名乗り、九州方面に何度か遠征しています。特に泊まりの時は中洲や天神の美味しいものを食べて盛り場を徘徊したことが懐かしいです。普段はライブをやっていない福岡のシェーキーズでなぜか無理やり飛び込みで演奏した覚えもあります。大きなダイエーがオープンした頃で、現場はスーパーの踊り場の特設ステージでした。白雪姫を題材にした音楽ショーだったと記憶しています。
5弦バンジョーのネックのまま6弦バンジョーに改造して弾いていましたが、弦と弦の幅が狭く弾きにくいので、6弦バンジョーのネックをカスタムオーダーすることを検討し、高校生の時に読んだ北野さん(現アコースティックハーモニー)の6弦バンジョーの記事を思い出して、名古屋の飯田楽器にコンタクトしました。自分で描いた図面を郵送して希望を伝えると、担当の菅原さん(当時課長?)からカスタムオーダーを快諾いただき、Gibsonロゴを入れるためにはGibsonの楽器を預けないといけないという条件がありましたが、2ヶ月ほどで作っていただけました。その間、毎週一回は始発で名古屋に出向き飯田楽器で進捗を訊いたりネックのグリップを確認しました。そして午後までに帰ってきて楽器屋でバイトしてました。このネックは現在Gibson Earl Scruggs modelに装着して健在です。
12月の中旬に東京に呼ばれて演奏することが決まっていましたが、ベースの古里さんが脱退することになり、バンドの維持が難しくなっていました。そこで思い出したのが、同志社の先輩バンドでベースを弾いていた同級生の渥美くんです。渥美くんは同志社世襲のDixie Ramblersの名ボーカル&ギターとしても活動していたので充分忙しかったと思うのですが、先に黒澤くんを引き入れた実績から、ラブコールを執拗に送ってリハーサルを開始しました。そういう理由で、この頃、同志社にも練習をしにバンドでよく行きました。
12月18日に学内のクリスマスコンサートが有りました。渥美くんと初めてのステージでしたが、この後、深夜バスで東京まで移動して、翌日は国立虎ノ門ホールで開催されたビーブロッサムという関東ユニグラスの生え抜きバンドが出演するコンサートでの演奏でした。早朝八重洲口に到着してすぐに食べたのが、僕にとって生まれて初めての吉野家の牛丼でした。大阪でいうところの肉丼や開化丼をまずくしただけやないか、と心の中で突っ込みました。
虎ノ門ホールの終演後軽い打ち上げの後、関東の学生有志のお宅に僕らは分かれて泊めてもらいましたが、翌朝、浅草のジューンアップル誌の事務所に集合したと思います。渥美くんはその前に京都に帰りましたが、残った僕らはその足で、マンドリンの松尾くんの絶大なる希望の下、青山のBoat Houseのブティックに行きました。彼は当時からトラッド系オシャレさんでしたし、現・奥方へのお土産GETという目的もあったのでしょう。
その後は、駒沢大学の講堂に移動してユニグラス(関東学生ブルーグラス連盟?)の例会に出席しました。ゲストということで3曲演奏させていただきました。ベースのトラの方のお名前を覚えておりません。すみません。
年明けて1981年、ビーブロッサムの事実上のプロデューサであった毎日広告社の武田さんからのご依頼で、当時サントリーが売りだしたバーボン風ウイスキーのCM曲を録音するという仕事がありました。前年に先輩の千里マウンテンボーイズが同じ録音をしていましたが、放送が関東限定なので聴く機会も無く忘れていました。曲はアレンジ物でもオリジナルでも良いということなので、僕が作詞作曲したものをバンドメンバーで、特に歌詞を修正して録音に望みました。日本語バージョン、英語バージョン、演歌バージョンと3バージョンを録音した覚えがあるのですが、手元では演歌バージョンを見つけられません。同じく関東限定でしたが、オンエアバージョンを貼り付けときます。
春合宿は前年と同じ小豆島土庄の民宿「松屋」でした。渥美くんが来てくれる関係で同志社の亀井くん達も来てくれたようです。マンドリンの松尾くん自慢の愛車ミラージュに乗せてもらった黒澤・長谷川・中井は上ケ原に住んでた関学のマンドリン秋元さんを小豆島まで拉致するという暴挙にでました。楽器の他、歯ブラシとパンツの携行のみ許可されました。
実は、この民宿「松屋」は関学のアメ民も定宿にしていまして、次の週に僕らは再び訪れました。アメ民は電気楽器を使うバンドもあるためにスタジオ付きの別館の方を利用していました。そういうことなら、関関同時合宿も可能だったのになと今さらながら思います。
バイトで行ってた楽器屋から正社員で雇いたいという申し出が合って、宮使いの馬鹿らしさも知らずに安直にOKしたのもこの頃です。
(続く)