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高校2年生の頃だったと記憶しています。当時は近畿放送だった今のKBS京都放送の深夜ラジオ、たしか土曜日のかなり遅い時間で毎週ではなかったと思いますが、マニアックなブルーグラスを聴かせてくれる番組がありました。
1976年春に来日予定だったDavid Grismanを紹介するためだったか、当時日本盤がリリースされたばかりの名盤Muleskinnerを紹介するためだったか、どっちだったか曖昧ですが、何故か、その夜は番組の中で確かにMinor Swingを聴きました。まだ僕がDjango Reinhardtのギターに出会っていない頃なのに、なぜオンエアされたその曲の名前を覚えているかというと、寝てしまってはいけないと考えてラジカセで全編エアチェックしたカセットテープがその後5年は聴ける状態で手元にあったからです。
そのMinor Swingは、David Grismanがその後に組んでDAWGミュージックを創ることになるクインテットのリハーサルの録音でした。まだDjango Reinhardtを知らない頃でしたので、僕にとってのMinor Swingはその演奏が全てでした。
1976年の年末にDavid Grisman Quintetのデビューアルバムが録音され、翌年にリリースされましたが、それにはMinor Swingは入っていませんでした。フュージョンがまだクロスオーバーと呼ばれていた1978年、大学のブルーグラス同好会で一緒になった中井くんがそのDGQのデビュー盤と共に、当時日本では唯一出ていたDjango Reinhardt & Stephane GrappelliのアルバムDjangology(1949年ローマ録音からのセレクションアルバム)を貸してくれました。DGQの曲だと思っていたMinor Swingが彼らのデビューアルバムに入っておらず、Djangologyのまさかの一曲目に入っていることに目眩がしました。そして同じMinor Swingなのに曲の構成やコード進行が違っていてシンプルなのにもかかわらず、アドリブ演奏は128倍以上複雑でした。Minor SwingはDjangoが作った代表曲であるということもその時に知りました。
これが1978年5月、僕が18歳の時、Django Reinhardtとの出会いでした。しばらくして、翌年1979年だったと記憶していますが、DGQ2枚目のアルバムHot DawgにMinor Swingが入っているのを見つけて、出たばかりの日本盤を買いました。なんと、そのアルバムのMinor SwingにはStephane Grappelliがゲストで参加していました。同じ頃、前述の中井くんに連れられて行った神戸三宮のDjangoという音楽喫茶で、リリースされたばかりのGrappelliのYoung DjangoというアルバムのMinor Swingを聴き、シンプルな曲が演者によっていろいろな表現で演奏されること、つまり、ジャズというものを初めて意識して聴けました。
時間は若干戻りますが、1975年のアラン・ドロン主演のLa Gitaneという映画ではDjangoの録音が効果的に使われていたということを後で知りました。映画の内容もフランス国内のジプシーの生活を題材にした劇映画で、記憶に残っている方も少なくないのではないでしょうか。その少し後には、アメリカでKing Of Gypsyという映画が公開されています。舞台はアメリカですが、キャラバンでの暮らしなどジプシーの生活を題材に使っているところなどはLa Gitaneと非常に似たコンセプトです。また、この映画のサントラはDavid GrismanとStephane Grappelliが共同で作りました。本人だけではなくバンドのメンバー(David Grisman QuintetとDiz Disley Trio)もジプシー楽士として映画に登場しています。
僕はまだ本格的にギター演奏はしていませんでしたが、Djangoのソロをコピーすることは密かな楽しみでした。メインの楽器だった5弦バンジョーにそのフレーズを移し替えたりして楽しみました。
その後、大学をドロップアウトして、プロのミュージシャンといえば耳当たりが良いけれど、いわばプー太郎のような生活をしながらフルタイムで演奏を仕事にし始めました。ささやかながら当時の主な収入源はディキシージャズの4弦バンジョー(テナーバンジョー)を弾くことでした。仕事に呼んでもらえるよう、古いジャズ曲を覚えるためにいろいろ苦労した覚えがありますが、そのうち、もっと仕事の量が欲しければギターを覚えるべし、という先輩のサジェストで、ジャズのギター演奏も徐々に始めました。ただ、バンジョーと持ち替えで演奏しますので、いわゆるモダンジャズのギターではなくて、スイング・ジャズ以前のスタイルで電気も使わないスタイルでした。バンジョーを弾く機会が今は減りましたが、このギター演奏は今でもまったく同じように続けています。
もう1980年代半ばでしたが、SAGA JAPANという楽器メーカーから国産初のマカフェリギター(Djangoや今のジプシージャズプレイヤーが弾く形の変わったギター)が発売され、最高級品を一台求めました。以来、ジャズの仕事でも事情が許せばF穴ギターではなくこれを持っていくようになりました。
マカフェリギターが発売されていたにも関わらず、当時はジプシージャズやジプシースイングどころかマヌーシュという言葉も聞くことはありませんでした。ジャーナリズムも音楽の仲間も、単にDjangoのジャズと呼んでいましたし、ヨーロッパのジャズを少しは知っている人にはそれで通じました。
例えばBireli Lagreneも1980年、13歳でデビューしていましたし、それ以前からヨーロッパではすでに現在のジプシージャズの雛形になる若いジプシーギタープレイヤーは多数活躍していました。しかしながらBireliが最初に紹介されたきり、日本にはいわゆるジプシージャズは全く紹介されていませんでした。
そんなある時、いきなりRosenberg Trioが来日しました。来日前に彼らのアルバムを聴いたところ、ポップスや8ビートばかりで全然Djangoと関係なく感じ、来日公演は行きませんでした。僕の中ではほんの10年前くらいまでRosenberg TrioはGypsy Kingsと同じ扱いでした。8ビート基調で符点の付かないビートは僕の中ではジャズではなかったのです。
今日で言うところのジプシーボサという類のジプシージャズ・レパートリーも当時のRosenberg Trioのアルバムで初めて聴きました。正直なところ、自分自身がDjangoのジャズを含めた古いジャズを演奏する立場として、その時はジプシー・ボサをジャズとして受け入れることができませんでした。今では、ジプシー・ボサをレパートリーにする本場のグループが大変多く、ジプシージャズのレパートリーとしては認めざるをえませんが、ジプシーボサは聴くのも弾くのも僕は苦手です。これは、僕がDjangoやジプシージャズに目覚めた後に、遅れて出てきたあたらしい別の音楽だからだと思います。
僕は、いわゆるオールドタイプなのでしょうけれど、今世紀になってからジプシージャズを聴き始めた人とは、ジプシージャズに求めるジャズ感が明らかに違うようです。