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2018謹賀新年Update : 2018/01/08 Mon 15:18

松も取れましたが、家から出ない新年一週間が過ぎ、そろそろ日常を取り戻そうと、駄文一筆啓上申し上げます。喪中以外の方には新年のお喜びを申し上げ、喪中の方には寒中のお見舞いを申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年は、僕にとって大学40年生という節目の年です。何故節目かというと、その時に知り合った仲間や諸先輩のお陰で、高校時代には予想もしなかったその後の人生を送ることができたからです。いや、その後の人生が光り輝く素晴らしいものでは無く、逆にかなりせこい人生を送ったことは自覚していますが、何にしろ40年前が若干18歳でのターニングポイントでした。

大学入学式にはスーツを着ないでバンジョーを持って正門をくぐりました。14、5歳の頃から巷で聞き及んだ名門ブルーグラス音楽クラブに苦労せず入るために、その大学の付属高校に経済的無理をして通い、暗黒の3年間を耐え忍んだ後の晴れの入学式でした。正門から講堂までの間、たくさんのクラブが新入生勧誘行動をしていましたが、楽器ケースを持つ僕の袖を引っ張る人は居ませんでした。地味に正門近くの植え込みの回りでマンドリンやフィドルのジャムセッションをしているのを横目に講堂に進むと、カンカン帽に赤い縦縞のチョッキを着込んだデキシーランドの演奏も観ました。なぜかバンジョーが居なくて、そちらに入部することにも心が動きましたが、中学の頃から予てより希望した名門クラブに入部するべく式典の終了を貧乏揺すりをしながら待ちました。式辞が終了する雰囲気を察知し、オリエンテーリングに出ないまま、正門前の植え込みに直行し、入部の希望を伝え、セッションに混ぜていただきました。男子校からそのまま上の大学に上がり、女子の存在を忘れかけていた頃、ブルーグラスのクラブに女子の先輩方がたくさん居られて、かなりドキドキしたことを記憶しています。そのまま新入生勧誘行動にご一緒させていただきましたが、夕方には数カ月前から勤めていたアルバイト先の製麺工場へ向かわなければならず、数日後の初登校まで先輩方とはしばしのお別れでした。

数日後か数週間後か忘れましたが、今でもアマチュア・ミュージシャンとしての活動にかなりの時間を割いている同級生が入部し、3人でバンドを結成しました。大学1年生としては異例の8月の宝塚ブルーグラスフェスティバルに単独エントリーを果たした3人の付き合いは、現在まで続いています。今年はバンド結成40周年ということで線香花火でも良いので打ち上げたいと思っています。

実は大学2年の前期までしか授業料を払っていません。後期には除籍になっているはずですが、それでもバンド活動やジャムセッションを楽しみたいがために、大学には毎日通いました。いわゆるプー太郎ですが、今のニートよりマシでしょう。授業料を稼ぐためのアルバイトがそのまま生活費のために変わりましたが、ある日、演奏のアルバイトがきっかけになり、普通のアルバイトで学費稼ぐのが馬鹿らしく思えたことも確かです。

19歳か20歳の頃は、東梅田にあった(今でもある?)シェーキーズというピザ屋に屯するようになりました。夜、デキシージャズのライブを聴けるからです。コーヒー1杯で3ステージ丸々聴くこともありました。吉川さんのクラ、マッシーのチューバ、藤森さんのピアノ、かえるさんのバンジョーで2ステージ演って、3ステージ目は、藤森さんが夜の店に仕事に行くので、吉川さんがピアノ、マッシーがコルネットに代わり、イッシーがベースで加わるというというようなことが多かったと記憶しています。毎日のように聴きに行ったのは曲を覚えたかったからで、演奏曲のタイトルと4弦バンジョーのコードフォームから推察したコード進行を紙ナプキンにメモして、何曲も持ち帰りました。録音できるカセットウォークマンが登場する前でした。それで多くの曲を覚えましたが、家には音源が無くて、確認のためにまた演奏を聴きに行くということをしていました。小唄でも例えば「Nobody’s Sweetheart Now」なんて曲は1コーラス32小節ではなくて40小節の変則的な曲ですから、その後10年位謎のままでした。デキシーによくある構成物の曲もよく演奏されていて、例えば、Wolverine BluesやAt The Jazz Band Ballを覚えるのはかなり大変なことでした。

シェーキーズのバンドの方々に顔を覚えてもらって、土曜日の終演後にはイッシーに連れられて歩いて5分のニューサントリー5にニューオリンズ・ラスカルズを聴きに行くことが何度もありました。ニューオリンズ・ジャズとシカゴ・スタイルの違いがなんとなく分かってきた頃です。シェーキーズのバンドはニューオリンズ・ジャズも愛していたと思いますが、プロとして、あるいはメンバーの音楽性から、シカゴ・ジャズの演奏を選択したのではないかとも思います。大阪を代表する2バンドを駆け出しの同時期に聴けて大変ラッキーだったと今になって思います。

シェーキーズのバンドの事務所がすぐ傍のバナナホール2階にあり、その後、演奏のお仕事を徐々に頂けるようになりました。その後は事務所が上本町に移転しましたが、僕が東京に移る直前の1995年まで演奏のお仕事でご縁をいただきました。

昼間は大学のキャンバスでブルーグラスのジャムセッションをして、夜はそのままライブハウスでたまに演奏をさせていただき、自分のライブが無い時はシェーキーズでライブを聴いたり、深夜はギターやバンジョーでジャンゴやクリスチャンのコピーをしこしこ弾いたり、アルバイトに出かけたりというのが、40年近く前の僕の毎日でした。将来のことを考えず暮らした結果が今の生活なんでしょう。

シェーキーズで思い出しましたが、高校時代、当時まだ40歳そこそこの母親に連れられて行ったことを思い出しました。ダンスホール時代のジャズが好きな母親には???だったみたいですが、バンジョーが入った演奏が僕にはツボでした。そして、新御堂の反対側にあったマンハッタンにも、母親と一緒にその足でハシゴしたのでした。マンハッタンでのブルーグラス演奏は、若いお兄さんたちが必死に演っていたこと以外、なぜかあまり記憶にありません。少し経って、新聞でそのお店が焼失したことを知り、愕然としたことを今思い出しました。

脈絡なく、40年前あたりのことを記しました。ご笑覧ありがとうございます。

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