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記憶が曖昧になっているのを自他共に認めざるを得ないので、40年ほど前からの人生の記憶を音楽を軸にして忘備録として書いておきたいと思います。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームじゃないのでご容赦ください。
11歳(1971年)、兵庫県川西市多田小学校の6年生でした。前年は東京杉並で暮らしたにも関わらず、夏は昆虫採集、冬は雪合戦に興じる田舎の子供になっていました。当時の小学校にしては珍しく、音楽の授業は音楽室で音楽の先生に習いました。僕はハーモニカもリコーダも吹けない音楽嫌いでしたが、「世界の楽器」というような授業があって、いろんな楽器の存在を教えてもらいました。中でも背中の丸いマンドリンとバンジョー(たぶん4弦)、コントラバスは楽器が音楽室に置かれていて、女の先生が実演してくれました。先生はマンドリンクラブ出身だったのかもしれませんね。レコードも掛けてくれて、フォスターの曲をバンジョーで弾いているのを聴かせてもらった記憶があります。その時からバンジョーの音は僕の脳味噌の端っこに刷り込まれました。
12歳(1972年)に吹田市の第六中学校に入学しました。田舎の小学校を卒業して山を降りてきたので、最初、同級生の友達は一人も居ませんでした。でも隣宅の石原くんと向かいの久保さんは同じクラスでした。今の言葉でアウェイと言うのでしょうか。
山の中には無かったプラモデルを容易に買えるので、1/700ウォーターラインシリーズにハマり、それがらみの友達が何人かできました。すぐにUコンというラジコン飛行機のリモコン版に興味が移りました。
担任の先生は音大出の若い音楽教師で、リコーダもまともに吹けなかった僕は、音楽の授業どころか担任の行動すべてに嫌悪感を持っていました。でも、同じクラスに矢野くん、梶原くん、早田くんというギターを弾く男子三人が居て、僕もギターを弾きたい衝動が起き、国鉄吹田駅前の井村楽器に吊ってあった8000円のガット・ギターを買ってもらいました。しかしながら、いきなり弾けるわけはなく、ソフトケースに入れたまま部屋の隅に長期間放置されました。ギターを買ったことは、この時点では誰にも言ってなかったです。
13歳(1973年)の時は、午後の授業を早引けして、「お笑いネットワーク」の公開録画を観るために堂島のSABホールに何度も通うような、変わった中学二年生でした。おかげで、今や伝説になっている芸人を生で観た最後の世代となりました。砂川捨丸とか林家小染、吾妻ひな子、横山東六etc…
父親の仕事の部下が家庭教師として我が家にやって来ました。僕は勉強が好きじゃないし普段は宿題も試験勉強も全くしなかったのですが、父親の手前、毎週土曜日はおとなしく英語版星の王子さまを言語で読んだり、Z会の問題集を解いたりしてました。
ある日、部屋の片隅に放置していたギターをその家庭教師の先生が弾いてくれました。今考えるとなんてことはないアルペジオですが、天の響きのように感じました。また、調弦をしないといけないというのもその時初めて理解しました。それをきっかけとして、GUTSとかヤングギターなどという雑誌を買うようになり、秘密裏に猛練習しました。若いというのは凄いもので1ヶ月もしたらコード進行が分かればなんでも弾けるようになってました。(今考えると全く弾けたつもり状態だったかもしれません。録音が残っていないのが幸いです。)
で、ガットギターじゃフォークソングじゃないということで、国鉄吹田駅前旭町通商店街にあったスーパーサカエの二階のレコード売り場にて、父親に頼んで7500円のフォークギターを買ってもらいました。そろそろ人前でボロロンと鳴らしても恥ずかしくないかなと思って、弁当食べた後の昼休みの音楽室で、教材として吊ってあったガットギターを鳴らすことも有りました。前述の早田くん、梶原くんともギターがらみで仲良くなり、両君のお宅にお邪魔し、梶原くんのお姉さんのピアノが置いてあった練習部屋や、早田くんのお父さんのジャズコレクションが置いてあった応接間で、今で言うセッションをしたことがあります。どれだけなにをやったかはほとんど覚えてませんが、早田くんのPaul Simonコピーにけっこう驚いた思い出があります。僕などは全く弾けたうちには入ってなかったと思います。
14歳(1974年)の時、たしかヤングギターの4月号だったと思いますが、Doc Watsonの特集で、Black Mountain RagやDoc’s Guitarの譜面が載っていました。聴いたことも無かったのでそのままそれはスルーでした。そのヤングギターのQ&Aコーナーか何かでブルーグラスについての質問が載っていて、回答にバンジョーという楽器とFoggy Mountain Breakdownという曲名と「俺たちに明日はない」という映画が紹介されていました。もちろんブルーグラスなど全く知らない頃ですが、ヤングギターの記事が縁で、前年に父親が買った4chステレオマトリクスオーディオセットと共に何故か有った世界映画音楽全集に入っていたFoggy Mountain Breakdownと出会いました。バンジョーの音は脳味噌に刷り込まれていましたのですが、強烈な速弾きはかなり衝撃的でした。
そして、バンジョーのスリーフィンガーを聴いてからは、いくら練習しても友達には敵わないギターを諦め、これからはバンジョーを弾こうと決意しました。商店街のスーパーの二階のレコード売り場にはピアレスのロングネック・バンジョーとウクレレバンジョーが吊られていました。しかし、高校入試を控えて楽器を買ってもらえるとは思えないので、バンジョーの教則本を買ってギターの調弦を変えて練習だけすることにしました。関西はKBS近畿放送(現・京都放送)の深夜番組でブルーグラスがけっこう流れました。FM大阪でも特番でブルーグラス番組がありました。そういうのをエアチェックしてました。
こうして、僕はブルーグラスをずっと演奏しようと思いました。今考えると関西大学のブルーグラス同好会ができたばかりの頃ですが、中学生の僕の耳にも大人経由で関西大学のブルーグラスのステイタスが伝わってきました。なので、高校の志望校は関大に入るのに一番有利な関西大学第一高校を選びました。
15歳(1975年)、頑張ったか頑張ってないか覚えていませんが、併願で受けた公立高校は落ちて、関大一高に目出度く合格しました。合格祝いにと予てから約束していたバンジョーを、梅田阪急三番街の梅田ナカイ楽器で買ってもらいました。初めて触るバンジョーですが、お店での試奏の時に、She’ll Be Comin’ Round The Mountainを弾いたのを覚えてます。
僕と10歳違いの叔母は僕を連れて阪神百貨店に行き、キングレコード編集の2枚組のコンピレーションとCountry Gentlemenのデビュー盤(洋盤)を買ってくれました。コンピレーションにはRed Allen、Frank Wakefield、Ralph Stanley、Don Reno等が含まれており、今考えると最初の最初からマストな音源を聴いていたことになります。
バンジョーを手に入れてうれしくてうれしくて、授業が終わったら一番早い電車に間に合わせるために走って駅に向かい、一刻でも早く家に帰ってバンジョーを弾く毎日でした。今なら考えられませんが、玄関の前に椅子を置いて外で日暮れまで弾きました。ご近所ではさぞや迷惑に思っていたことでしょう。
ある日、同じクラスの末宗くんが教室でジャズギターを弾くのを聴いて、自分はギター辞めて良かったと思いました。彼の演奏スキルは半端では有りませんでした。それで、僕はさらにブルーグラスにどっぷり浸かる毎日となります。
母親がパートに出ていた千里山の喫茶店にフラットマンドリンを持って毎日珈琲を飲みに来る矢崎さんと、母親の紹介で知り合いました。多い時は毎週、矢崎さんの千里山の下宿に通ってバンド練習の真似事を始めたのもこの頃で、Country GazetteやNew Grass Revivalを聴かせてもらいました。その矢崎さんの提案でもう一人メンバーが欲しいということになり、音楽雑誌のメン募で捕まえた片岡さんは男前で歌の上手い桃山大学生でした。片岡さんはブルーグラスのレコードをいっぱい持っていて、今考えても大変渋いShenandoah Cut-UpsやBuck Whiteの新譜をリアルタイムで聴かせてくれました。Clarence Whiteのライブテープもいろいろ回していただきました。1975年というこの時代に身に余る耳贅沢をさせていただき、今でも大変感謝しています。
また違うある日、中学校の同級生、ギターの上手な矢野くん(前述)が家に訪ねてきました。なんと、彼もバンジョーを弾いているとのことで、お互いの楽器を一週間ほど交換しました。僕はTokai、彼はMorrisだったと思います。その後は矢野くんとご無沙汰してましたが、先日何十年かぶりにFacebookで繋がりました。
仮にも高校生ということで、夏休みにバイトした給料でKasugaのマンドリンを買いました。深江橋に有った大丸百貨店の配送センターでお中元の梱包をやってたのですが、この時覚えた包装の仕方は今でもけっこう役に立ってます。そして、その冬のバイトも同じ仕事をして、ビートルズなんか聴いたこともなかったけど、ウッドベースに形が似ているという理由でパチモンのヘフナーコピーのバイオリンベースを買いました。エレキベースですが、アンプが無いので、4chステレオセットに付いてたマイク端子に放り込んで鳴らしました。次の春休みは、母親の紹介で寿司屋の小僧になりました。寿司を握る以外は全てやりました。このバイトはこの後、高校時代を通して週末の2日間と夏冬春休みにさせていただきました。お陰で台所仕事のいろいろを覚えられました。毎週のようにシャリを炊いて酢を合せて、錦糸卵100枚焼きましたよ。モンゴウイカも捌いたし、出汁のとり方や三枚おろしも15歳で覚えられたし、今でも感謝してます。春休みのバイトの給料で、たぶん日本で最初に発売されたと思われるクラリオンのWカセットデッキを買いました。
16歳(1976年)、高校2年生になったばかりの頃、中学の同級生の梶原くんから連絡があって、彼の通う吹田高校にブルーグラスが好きな奴が居るから是非会って欲しいとのことでした。僕は自分の学校では孤軍奮闘していて、ブルーグラスの友人は大学生のお兄さんしか居なかったので、喜んで某日に七尾の太田くんの家に向かいました。バス停で待っていた太田くんは当時は速弾きリードギタリストで、Tony Blackと名乗っていました。その時に一緒に居たのが千里高校の工藤くんで、彼は上手にバンジョーを弾きました。太田くんと工藤くんは同じ中学の同級生でした。太田くんの家の離れの二階で、高校生3人が可愛らしいジャムを楽しみました。それからしばらく経って、録音セッションをしようということになりました。太田くんはなんとオープンリールのデッキを持っていました。それにステレオ録音で演奏を記録しようというのです。僕、太田くん、工藤くんの他に、岸辺の浜田くん(摂津高校)がマンドリンで参加しました。(この数年後、太田くんは大阪経済大学でマンドリン、浜田くんは大阪芸術大学でマンドリン、工藤くんは同志社大学でフィドルを弾くことになります)それで、数年前に太田くんに聴いたら録音テープはまだ保存しているということでした。高校2年生の自分達がどういう演奏をしていたか、また聴いてみたいです。
高校2年の夏休みは、平日の配送センター、週末の寿司屋のアルバイトもそこそこに、大学生のお兄さん二人と四国にバンド合宿に行くことになりました。最終電車で和歌山に行って始発のフェリーに乗って徳島に渡って土讃線か何かで大歩危小歩危の近くを通って、人里離れた山の中のお寺がやっているユースホテルに二泊して昼間は川の畔で練習しました。悔しいのが、ほんとに記憶が曖昧になっててどのユースホステルにお世話になったのかが思い出せないのです。ネットで記憶を頼りに探したら、ココが一番それらしいのですが、違う気もします。なぜ悔しいかというと、ユースの特徴である夕飯後のミーティングで少し演奏したのをそこで録音して下さったからです。かなり昔に別の人から録音聴いたよと言われたので、今でもあるのかなと思いました。聴けるとうれしいのですが。。。
高校2年生の時の文化祭では、図書館の横で3年生の菅原さんや秋吉さん達とブルーグラスのジャムセッションをしました。先輩方は大学のブルーグラス同好会でも修行されていたということでかなりお上手でした。(大学は高校の隣に立地していました)
このセッションを観ていたのが、女子校の落研から応援で来ていた漫才コンビの辻さんと高田さんだったというのは後年聞きました。お二人とも大学時代はずっとブルーグラスを演奏しておられます。
17歳(1977年)、春のバイトの給料でEliteというブランドのドブロギターを買いました。当時、一緒にバンドをしていた大学生の片岡さんからMike Auldridgeのデビューアルバムと二枚目を借り、教則本も梅田ナカイ楽器ウメチカ店で手に入れて、やる気満々でした。Pick AwayとかFireballなどはバンジョーの演奏スキルで覚えられましたが、ドブロ本来のメロディックな奏法はなかなか難しく、すぐに諦めました。
吹田市片山町にある片山公園というところで、大学生のお兄さん二人とバンド練習することがたまにありました。或る日、僕らと似た音が公園の違う場所から聴こえてきました。丸腰楽団というベテランバンドで、僕らと全く同じ編成でした。違うのはマンドリンの西山さんは実はフィドラーでフィドルをフィーチャーした曲があったことです。バンジョーは中村さんで、西山さんと共に関西大学の民謡研究会(ブルーグラス同好会はそこから分裂しました)出身の大先輩で、卒業されて間もない頃です。あともう一人は大阪工業大学の中尾さんがギターを弾かれていました。このお三方とはこれきりで、この後10年近く後に再会を果たします。
まだアマチュア用ののMTR(マルチトラッカー)デッキが発売される前でしたので、多重録音はデッキ2台使ってのピンポン録音で行わなければならないため、音質も演奏も大したものは記録出来ませんでしたが、春に買ったWカセットデッキが大活躍しました。録音は高校2年(1976年)の夏から冬の間と思われます。ブルーグラスの諸先輩方はもうすでに全国的に活躍しておられた頃ですが、僕は高校生としてこれをいっぱいいっぱいで録音しました。ドンカマなど使えない頃ですので、主メロのバンジョーを録音してからベース>ギター>マンドリン>ドブロの順にピンポンでかぶせていったと思います。
大学生のお兄さんとやってたバンドは、関大の矢崎さんが卒業して郷里の浜松に帰ってしまうということで、千里高校に通う同い年の工藤くんが代わりにバンドに入りました。片岡さんがマンドリン、僕がギター、工藤くんがバンジョーという編成でけっこう渋い曲をやっていた記憶があります。
高校3年の夏は寿司屋が廃業して、関連の会社がやっていた千里丘のミリカプールの食堂で働きました。プールサードで演奏していたバンドが毎日Take It Easyを演奏していて、バンジョーで混ぜて欲しいと思っていたことが記憶にあります。バイトを数日休ませてもらい、前述の片岡・長谷川・工藤の3人で三角テントを担いで、8月の最初に今でも開催されている宝塚ブルーグラスフェスティバルに初めて参加しました。この年は第6回目の開催で場所が三田アスレチックになったのもこの年からだそうです。国鉄三田駅から田舎のバスに乗っていく予定だったのですが、バスの発着のタイミングがあわず、楽器を持ってバスを待っていた「北海道ベアーズ」を名乗るお二人に声を掛けて、タクシーに相乗りして会場入りしました。この時の経験はかなり衝撃を受けました。日本中からたくさんのブルーグラスバンドがやって来て山の中で24時間弾きまくっていて、みんなそれが上手なわけです。初めて聴く日本人バンドの生演奏がとても上手だったので、自分はまだまだという気持ちともっと頑張ろうという気持ちでドーパミン出まくりだったと思います。ブルーグラス鉄かぶとという東京のバンドを聴いて大変凄いなと思っていたら、客席から怒号と石がステージめがけて投げられたことを覚えています。また、ステージ脇に酔っ払ってマグロのようになっているお兄さんたちが何人も居たことも覚えています。僕もそういう人になるのかなと少し不安になったのも事実です。
少しは受験勉強をしたようで、ラジオの深夜放送の思い出があります。前述したように、当時の近畿放送の深夜枠は日本列島ずばりリクエストという番組が帯で放送されていて、高石ともやとザ・ナターシャセブンが週に2日ほどパーソナリティを担当していたと思いますが、ブルーグラスの音源がよく掛かりました。諸口あきらさんの日もカントリーやブルーグラスがたまに掛かりました。他の在阪ラジオ局の深夜放送とは全く違う選曲でした。それとは別に土曜日深夜にブルーグラスしか掛からない番組があって、来日したばかりのDavid Grismanの来日前のリハーサルテープを掛けたりしていて大変興奮しました。ブルーグラスについて、かなり多くの知識をラジオから得たと思います。