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日本では珍しいジャズ・マンドリン・プレイヤーの吉津正司さんが今週亡くなりました。突然の訃報に言葉も出ません。安らかに眠れることをお祈りするのが精一杯です。
僕ら仲間は吉津正司さんのことを親しみを込めてヨッサンと呼びます。年下の僕らにもそれを許容してくれました。ヨッサンと初めて会ったのは1980年頃の宝塚ブルーグラス・フェスティバルでした。大阪芸術大学出身の彼の後輩達のバンドメンバーと僕は親しかったので紹介してもらいました。ただ、その時は親しくなるには程遠く、ちょっとした会話をしたに過ぎませんでした。
大阪千日前のライブハウス、アナザードリームの前身で、転々と場所を変えていたジュリアン・ソレルという屋根裏部屋みたいな小さいライブハウスがかつて有りました。そこに出入りするようになって、チーパパしていたヨッサンと親しくなりました。たしか1980年代中頃です。
1980年代終わりにはかなり親しくなり、お店とは関係なしに麻雀や飲み会で週に何度も会ってました。丸3日寝食を共にしながら遊んだこともありました。遊びが過ぎて、ヨッサンが離婚したのもその頃と記憶しています。
不思議なことに、それだけ親密に付き合ってても、僕はヨッサンとバンドを組んだこともありませんし、リハをしてステージに上ったことも有りません。
1990年代半ばに僕は東京に移住したので、ヨッサンと顔を合わせるのは、たまに行く宝塚フェスくらいになりました。その頃、ヨッサンは重度のアル中になり、社会との関わりを持てないくらい生活態度が堕ちていきました。アルコールが原因なのかは分かりませんが、同時に体調もおかしくなり、10年ほど演奏の表舞台から消えていました。
現役ミュージシャンでヨッサンの子供の頃からの親友が、あらゆる手を打って、アルコールからヨッサンを救ったのも束の間、ヨッサンは死に至る病を患いました。しかしながら、医者も絶対に失敗すると言った手術を乗り切り、リハビリを重ね、数年前に演奏に復帰しました。昨年はアルバム「Monroe」をリリースして、かつてアル中になる前よりも意欲的に活動しました。
僕は昨年秋から4度ほどヨッサンと演奏をご一緒しました。昨年の2度は僕が所用で帰阪した時にうまくタイミングがあって、お互いどちらかが急遽ゲストで参加した数曲の演奏でした。今年になって、1月にヨッサンの銀座ロッキートップでの正式なライブに正式に客演として参加させていただいたのと、その翌日に渋谷クロコダイルにて同じメンバーで演奏した2回は、長い付き合いで初めてのバンド・クオリティのステージ演奏でした。
これからを楽しみにしてたのに、それが最後の共演になってしまいました。。。
大人になってから、(もちろん自分で好んだ)波乱の人生を送ったヨッサンは、ネット上に文章を残せないような数々の逸話を残しました。そして、みんなに愛されたまま、逝ってしまいました。
追記:
最後の最後まで献身的にヨッサンをサポートした川瀬さんと中西さんに謝辞を述べたいと思います。