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嫁さんが茶道に造詣が深い関係で、(茶手前には興じないけれども、)僕も少しは茶の湯のことが分かります。骨董茶道具のコレクション展に出かけて溜飲を下げたり、古道具屋で見立ての見立てをして「無い物買い」をしたり、シャドウボクシングを楽しむことが少なくありません。
僕がシャドウ茶道で完結してる理由は、僕の考えですが、現代の茶道コンツェルンの裾野で搾取されている人達が、アキバに通うヲタクの行動とベクトルの方向が似ていて、ちょっとアレだからです。また、流派に拘ることを強いられ、ねずみ講式に上納金を吸い取られて親玉を肥やしていることを理解していない人が多いので、僕との価値観の相違から来るコミュニケーションの不和を警戒していることもあります。
ですが、明治の終わりから昭和の初め頃に「数寄者」と呼ばれる人が何人も現われ、豪快な茶の湯道楽で、現代の陰気なヲタク茶道とは違った自己主張をしていました。彼らは財閥や富豪でしたから、金にモノを言わせて、今日では国宝あるいは重要文化財に指定されているような数々の美術工芸品をコレクションし、従来の家元茶道に拘らず、日本美術という観点から、それらのお宝を積極的にとり入れ、豊かで豪華な茶の湯を創り上げました。(金にモノ言わすという意味では、家元のパトロンにもなって、天下御免になっていた可能性もあります。)世間の評価がどうあれ、数寄者達は、創造という意味では、現代の稽古茶道に集う小金持ちのオバサン達がどう頑張っても届かないだろう崇高な目的を果たしたと思います。
こういった数寄者の大人達は単なるブルジョワではありませんでした。前のトピックで述べたように戦前の日本のジャズのことを調べていて最近知ったことですが、特に有名な数寄者の何人かに共通して言えるのは、日本のジャズの創世に直接的間接的になんらかの影響をもたらしたことです。ここにきて、嫁さんの趣味である茶の湯と、僕が愛するジャズが繋がってしまいました。
具体的に事例を述べてみましょう。
三井物産の創始者である益田孝(鈍翁)は、最初の近代数寄者としてあまりにも有名ですが、大富豪であったその鈍翁の息子、益田太郎は太郎冠者のペンネームで有名な「今日もコロッケ、明日もコロッケ…」という「コロッケの唄」の作者であり、古くは浅草オペラ、その後は帝劇の演出をやった人です。大正末〜昭和初年の益田太郎のお屋敷には、ジャズ演奏用の楽器一式と録音装置もあったそうです。そして益田太郎の5人の息子、つまり孫達は、まだ世間ではプロの演奏家がいなかったジャズの演奏を屋敷の中で楽しんでいたということです。初期のプロミュージシャンが招かれてジャムセッションをすることも多く、後に彼らを中心に慶応大学のセミプロ学生バンドとしてジャズコンサートを行なったり、昭和3年3月19日には、日本音楽界初のジャズ録音である二村定一の「アラビアの唄」の伴奏を行なうまでになりました、
一方、西の数寄者横綱、阪急電鉄の創始者として有名な小林一三(逸翁)も宝塚歌劇の設立〜推進に力を入れましたし、戦前戦後とジャズやレビューの殿堂となる有楽町あたりの劇場を全て参加に治めていました。宝塚の楽団出身の優れたジャズ・ミュージシャンも多く輩出しています。
益田鈍翁の後輩格にあたる高橋箒庵は、呉服屋だった三越を近代的なデパートにした中興の祖ですが、彼の息子は、昭和10年台中頃に日劇のジャズレビューの演出を行なっています。
他にも日本のジャズに貢献した数寄者がもっと居るはずですが、僕の勉強不足で分かりません。言えることは、数寄者が成金趣味的な茶の湯を好んでいたのではなく、文化的創造のために文化遺産としての道具を買い漁っていたのだろうということです。新しい茶の湯を作るのと同じように、当時、海の物か山の物かも分からなかったジャズに新しい文化を感じ、創造のためのスポンサーになることを惜しまなかったのでしょう。つまり、箱庭的な茶道ではなく、桃山の昔に文化や政治を動かした茶の湯を昭和の世に再現しようとしたのが昭和の数寄者なのではないでしょうか。
平成の数寄者が現われて新しい文化が花開くことを切に願います。