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昔から、日本の戦前のジャズに非常に興味があり、LP時代に復刻された音源を少しは聴いていたのですが、最近、バンドの仕込みや個人的な興味があって、ネット上の関連サイト、図書館の蔵書や入手可能な音源で知識を仕入れています。
この手の情報は、ネット上でも親切な方が惜しみなく筆を執っていただいているので、いまさら僕の乏しい知識をここで暴露する必要は無く、詳しくはそれらのサイトで読んでいただけると良いでしょう。ここでは、僕がこれまでに知り得たこれらの情報を、自分が現代に生きながら、現代としては時代遅れな現役ミュージシャンであるがゆえの、斜に構えた切り口で書いてみましょう。
戦前、それも昭和5年頃から15年頃の間、つまり、1930〜40年頃は、「ジャズで踊って」というのが合言葉であるかのように、日本の都会ではジャズがステイタスを持っていました。今からは信じられません。当時のジャズは数年遅れではありますが、本場アメリカのジャズをほぼそのままの形で受け容れ(一種のコピー)ながらも、日本独自の解釈が行われていました。今日の洋楽ポップスと邦楽ポップスの関係と全く同じだったのです。少なくとも、日本政府が戦争をするための体制を国民に押し付けるようになるまでは、確かにそうだったのです。
昭和になるすぐ前の大正末期に、日本人はジャズらしき演奏を海外航路の船上バンドによって輸入しており、それが関東大震災後に関西に逃げたミュージシャン達によって、大阪道頓堀で昭和初年に花開いています。当時の中心人物は井田一郎というバンジョー弾きだったということで、僕は同じバンジョー弾きとしては非常に興味深いです。井田一郎は元々バイオリンからバンジョーに転向した人なので、バンジョー演奏に関してはあまり感心できるほどの腕前では無かったということですが、その後上京し、戦前を通して日本の音楽ジャーナリズムの中枢に位置するようになります。
昭和ヒト桁は、大阪のダンスホール閉鎖の影響で上京したミュージシャン達が浅草の芸能と結びつき、全国的なブームとなる日本式の当時のジャズが完成した時代です。本場アメリカでは、黒人の音楽であるジャズを白人向けにソフトにプロデュースしたポール・ホワイトマンがKING OF JAZZと呼ばれて凄い人気を誇っていた頃ですから、日本で演奏されるジャズもホワイトマン楽団式のアレンジが施されたものがほとんどでした。今日考えるアドリブが中心となるジャズ演奏とは違い、譜面により完全に編曲されていましたが、ミュージシャンのスキルが上がるに連れ、アドリブをフィーチャーした、より自由なアレンジで演奏することも珍しくなくなりました。
昭和もフタ桁になる頃、ジャズブームは絶頂を迎えます。ミュージシャンが上手になったこと、本場のジャズがレコードや譜面、そしてその頃デビューしたトーキー映画でリアルタイムで耳にできるようになったことの他に、明治時代に海外移民していた日本人二世が多数来日し、英語のフィーリングでジャズを歌える歌手が増えたこともその追い風になりました。特に二世歌手の元祖とも言うべき川畑文子は伝説のミスター・ボージャングルにタップダンスを師事し、本場ブロードウェイですでにスターでした。2回の来日で100曲足らずの録音や数多くのツアーをしました。彼女の親友であるベティ稲田はさらに上手な唄で国産ジャズボーカルを完成させます。二世ではありませんが、戦後もずっと歌謡曲歌手として活躍するディック・ミネは、作詞・演奏・歌唱で大活躍し、たくさんのジャズ・スタンダードを素晴らしい演奏とともに録音に残しています。録音の他に撮影されたポートレイトを見ると、発売されたばかりのナショナルのドブロギターを抱えている物があります。時代の最先端だったわけです。ミネのドブロ・インストゥルメンタルとして残されたアイルランドの娘(Smiling Irish Eyes)は、エディ・ラングばりのサイドギターと併せて、ブルーグラス・ファンやトラッドジャズ・ファンは必聴です。
今日でもそうですが、和製ナントカというキャッチが当時にもありました。曰く、和製ルイ・アームストロングや和製ボスエル・シスターズ、和製テディ・ウィルソン等々。 SPレコードで残された当時の録音を聴けば分かりますが、かなりの水準の演奏をしていました。1980年前後に自由劇場という劇団が舞台に掛けた上海バンスキングという芝居が大ヒットし、後に映画化もされましたが、ヒロインに扮する吉田日出子の唄の伴奏のジャズ演奏はこの当時の演奏をうまく再現した物です。吉田日出子の唄も前述の川畑文子や後述のミッヂ・ウイリアムスの雰囲気をよく再現しています。また、国際都市上海にジャズ・ミュージシャンが武者修行や出稼ぎに行くというこのストーリーは歴史上の事実でもあり、戦前のミュージシャンが本場のジャズを間近で吸収する絶好のチャンスでもありました。
その上海にツアーした帰りに日本に寄ったのが黒人ジャズシンガーのミッヂ・ウイリアムスです。エイギョウバンドとしては、それまでにいくつかのバンドが日本に職を求めてやってきていますが、ジャズ系の本格的な外タレとしては彼女が第一号でしょう。また、戦前では最初で最後だと思います。後にルイ・アームストロングの楽団でも歌うこともあったという彼女は、ピアノ弾きとダンサーである兄弟だけを連れて来日し、舞台もこなす傍ら、録音もコロンビアに数曲残しています。本場の一流のジャズシンガーが日本で録音をしていたのです。(その録音を聴くと、後述する日本式ジャズであったのには驚きました。)伴奏をしたのはコロンビア専属のビッグバンドで、当時の演奏水準の高さを、やはり録音から知ることができます。Bye Bye Bluesでは大きくジャズバイオリンがフィーチャーされ、まるでホワイトマン楽団のジョー・ベヌーティ、エリントン楽団のレイ・ナンスではありませんか。
日本式のジャズという表現を何度か前述しましたが、これは僕の考えでしかないことを断った上で、キーボードを進めます。今でこそ英語で歌われる曲が自然に耳に馴染みますが、昭和初期の日本においては、まだまだ毛唐の言葉ということで敬遠する人が多かったことは想像に難くありません。そこで、ボーカル中心だった録音では、日本語に訳詩した物が歌われました。この訳詩が直訳であるものや完全に別の意味に作詞された物など百花繚乱だったわけですが、時代柄、文語調や七五調の文言がちりばめられ、日系二世のローマ字フィーリングの日本語とマッチし、一種独特のエスニックな雰囲気を醸しだしていました。こういった試みは戦後も流行歌の世界で続けられていますが、戦前の日本式ジャズのそれは、全く別物だと言って良いでしょう。私見ですが、70年代フォークや高石智也系フーテナニーでもこの轍を踏んでいればもっと音楽的に成功したのではないでしょうか。戦後唯一成功した例として、(洋楽の楽曲コピーではありませんが、)サザンオールスターズのバタ臭い唄い方があります。それと同じ手法を、ディック・ミネが昭和10年頃にすでにやっていました。
戦前の日本でジャズがブームになるきっかけは、後にエノケンの一連の録音で確立されたように、浅草演芸との結びつきにあったわけですが、特にボードビルにおけるタップダンス伴奏としてのジャズの要素が大きかったように思います。タップの名人が歌手であることも多く、録音にタップの靴音がフィーチャーされることも珍しくありませんでした。また、当時世界的に流行してたタンゴやハワイアンといったジャズとは違うジャンルの音楽も日本では大きくジャズという枠の中で捉えられていました。つまり、洋楽はクラシック以外全てをジャズと呼んだわけです。その結果、ハワイアンバンドがジャズを演奏したり、ジャズバンドがタンゴやハワイアンを演奏したりすることが珍しくなく、ビッグバンドアレンジなのに、なぜか間奏がハワイアンスチールだったりする音源も数多くあります。コロンビアやビクター、テイチクというレコード会社専属のスタジオミュージシャンはジャズやハワイアンの演奏ができることが必須だったようで、ジャズ以外の和物の録音でもバンジョーやドラムセットが使われた例が非常に多いです。残されている録音風景の写真を見ると、特にドラムセットのフロアタムが鋲打ちの大きな和太鼓だったりするのは興味深いです。
ここで述べた日本の戦前のジャズ狂乱は、戦争を決意した国家によって、まずダンスホールなどの常打ち小屋が禁止され、次にレコードの発売や放送が禁止されます。これでトドメを刺され、敗戦占領までの間、一般市民はリズムに乗ることを忘れてしまいます。しかしながら、敵性音楽としての洋楽演奏の一切の禁止が敢行されたのは、戦争も中盤になり日本の敗色が濃くなった頃ですから、ミュージシャンや歌手は慰問演奏やドサ回りをし、徴兵されないかぎり戦争中も楽器を手にしていました。敵性音楽禁止の後も、唱歌や日本民謡を素晴らしいビッグバンドアレンジで演奏するなどしてストレスを和らげていました。また、対米謀略放送では日本では最高のジャズミュージシャンにより、グレン・ミラーやベニー・グッドマンのスイングジャズが演奏されていたということですから、じっと戦争が終わるのを待ち、再びステージで演奏できる日の来ることを祈っていたと思います。
話しは変わりますが、当時、カントリー系の音楽は本場アメリカではヒルビリーと呼ばれていました。これらのいくつかの音源も日本に入っていたはずなので、それらもジャズ=洋楽という括りで一部の市民の耳には届いていました。カントリー系音楽の日本解釈で最初に録音されたのは、灰田勝彦「峠の我が家」(昭和15年1月18日録音)ではないかと思います。ハワンアン風のイントロや間奏が付いていますが、同時代のSONS OF PIONEERSのようなサウンドに驚きます。実は、戦後いち早くアマチュアカントリーバンドを組んだ尾崎兄弟(今もお元気で演奏をされています)は、戦時中でも、広い敷地を持った京都のお屋敷の中で、敵性音楽であるヒルビリーのブラザーデュオのレコードを聴いていたということを人づてに聞きました。
私も昨年入院しているおりに戦前のジャズソング(Hikaruさんのいう戦前の日本式のジャズ)について書かれた本を読みました。(「ジャズで踊って」瀬川昌久)
今までは、お気に入りのミュージシャン(二村定一や岸井明など)の乏しい音源をいくつか持っていて、ただ聴いて愉しむだけでした。この二人についても触れられていて嬉しかったです。また、いろいろなミュージシャンのエピソードが具体的に細かく書かれていたので、大変参考になり「もっといろいろさがして聴いてみよう」という気になりました。
>「ジャズで踊って」瀬川昌久
今日、図書館で借りてきました。(増補版の方です)
流し読みしてみましたが、上で僕が書いているのと同じですね。この手の書籍は、僕なんかの好きな昭和初期の日本の音楽業界についての資料として非常に価値のあるものだと思います。しかしながら、ミュージシャン個人のプライベートなことが軽々しく書かれていることが多いですね。つまり、ミュージシャンがどのバンドでバンマスとケンカしてどのバンドに移ったかとか、誰と誰が結婚したか、別れたかなどです。たった80年前のことですが、ミュージシャンの個人的行動がが今や伝説として語り継がれる時代になりました。あと何十年かすると僕らもそういう風に書かれるのでしょうか。向こうの世界から興味深く見たいですね。
初めまして。鹿児島からの書き込みです。鹿児島で歌手をやってます。キングトーンズが師匠にあたるので…50年代の黒人コーラスDoo-Wopを専門にやってますが…エノケンのジャズ小唄に影響を受けて,昭和初期のジャズ小唄を好んで聴いてます。
かくいう私は昭和47年生まれなので,ナカナカ,SP盤との出会いも少なく,書籍などでの情報を中心に…買い漁っていましたが…今回,ステキなブログに出逢い,書き込みさせていただきました。ちなみに,“ミッヂ・ウィリアムス”で検索して辿り着きました。
小学5年でエノケンと出逢い…既に故人でしたが…その影響でジャズ小唄に傾倒…自由劇場の,というよりは,深作欣二監督の「上海バンスキング」に影響を受け,自由劇場つながりでは,脚本家の齋藤さんの著書に登場する明治生まれのジャズドラマー「ジミー原田」氏に影響を受け,“ジミー”を名乗ってます。
ナカナカ,ジャズ小唄を歌う機会には恵まれませんが…「青空」「月光価千金」などなど…スヰートな楽曲の多いこと。時々は,舞台にかけてます。
とりとめのない書き込み失礼しました。中1の秋(恐らく1985年)のNHK-FMの特番で紹介されたミッヂ・ウィリアムスの「レイジーボーンズ」。その時のアナウンサーも,昭和初期の表記スタイルから“ミツヂ・ウイリアムス”と言ってまして…ず~っと,ミツヂだと思ってましたが。いつかは,CD化されるのを楽しみにしてます。
また,伺います。失礼しました。
http://jimmykt.gooside.com/
入枝様
書き込みありがとうございます。貴WEBを拝見しました。守備範囲ではありませんが、DO-WAPも好きな音楽のひとつです。というか黒人音楽はだいたい好きです。
エノケンも良いのですが、二村定一のジャズソングの方がリズムや雰囲気の上で日本式のジャズしています。井田一郎やアーネスト・カアイといった編曲者の古い編曲がその理由だと感じます。逆にエノケンのジャズソングは立派なオーケストラ(ポリドール?)で豪華にスイングしています。二村は昭和一桁に活躍し、エノケンは10年代ですから当然ですね。10年代だったら、むしろディック・ミネの本格的なジャズが僕なんかの耳には心地よいです。
ミッヂ・ウイリアムスですが、Midge Williamsで検索するといろいろ情報を見つけられます。(CDでは、 http://www.collateralworks.com/tr/midgewilliams1.html に日本録音のLazy Bonesが入っています。)それくらいアメリカでも有名な歌手だったようです。
NHK-FMの特番は1984年1月12日の第一回目の録音が手元にあります。(この回はミッヂの曲はかかっていません。)
戦前の流行歌をDO-WAPのステージにかけるのでしたら、ブギの女王になる前の笠置シズ子の数曲など楽しそうです。もちろん服部良一編曲ですのでアメリカの匂いがプンプンします。
日本式のジャズを聴きまくったり、それについてアレコレ調べたりするのは、僕のライフワークになりそうです。またお越しください。