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昭和40年頃、僕は大阪府豊中市大黒町というところに住んでいました。阪急宝塚線庄内駅と阪急神戸線神崎川駅のどちらからもそこそこ遠い、陸の孤島のようなダウンタウンです。当時、庄内駅前にはスーパーマーケットの走りでもあったダイエーが開店した頃で、レジ袋登場以前、買ったものがパンパンに入った大きな茶色の紙袋を、籐で編んだ買い物カゴに入れて闊歩するエプロン姿の主婦が歩いていたのをよく覚えています。でも、近所のたいていのお母様方は、歩いてすぐの豊栄市場で日々の買い物を済ませていたことでしょう。
Google Mapで見ると、フレッシュ市場豊栄と名前が変わっていても現存している、当時の豊栄市場の北側少し東に、大きな出窓にバイオリンがたくさん吊られたお店があったことを、ほんとによく覚えています。でも、それが何屋なのかは全く覚えていません。今考えると、大阪音大も近い土地ですから、バイオリンの修理屋さんだったのでしょうか。とにかく、5歳の子供には、その風景が印象的で、TVなどで観るそのバイオリンをとにかく弾いてみたい衝動に駆られました。
バイオリンを弾いてみたい旨を母親にカミング・アウトしてみましたが、自慢にもなりませんが、けっこう貧しい暮らしをしていたようで、鼻で笑われてお話にもなりませんでした。では、次の手段と、隣の家に住んでいた孫に甘い祖母にもお願いしてみましたが、自分たちのような身分の者がバイオリンなんてとんでもない、近所に笑われる、と一蹴されました。バイオリンやピアノ=良家の子女という思い込みが一般的だった頃です。今でもそうかもしれませんが。。。
結局、バイオリンを弾くことは叶わず、数年後には珠算教室に通わされることになりました。その頃には、市場の斜め前のバイオリンを吊ったお店の姿も消えていたと思います。
それから、10数年後、祖母から、大学合格のお祝いに、入学式に着ていくスーツを買ってやろうという話をいただきました。しかしながら、入学式には平服でバンジョーを持って行くつもりをしていましたし、スーツなど無用の長物でしたから、固辞しました。それでも入学式も終わって大学に通う頃、どうしてもお祝いをしたい祖母は、お金をあげるから好きなモノを買いなさいと言ってくれました。そのお金を持って小走りで駆け込んだのが、国鉄吹田駅前にあった井村楽器で、たぶんもう5年以上は吊ってあったと思われるスズキ・バイオリンNo.300をそのお金で買いました。(当時の最低機種はNo.280だったと思いますから、ちょっと上等。)幼少の頃、身内にお願いしても叶わなかったバイオリンを弾く夢を10数年経って、身内の祝儀で目出度く実現できました。
バイオリンを手に入れましたが、誰にも習わずに弾けるようになるのは、予想通りほぼ無理でした。しかし、高校生の時から弾いていたマンドリンと調弦運指が同じというのが救いで、LPレコードで聴いていたフィドルの曲を採譜して弾くことを始めました。でもやっぱり、弾くというレベルには全く成らず、その後20年位は正式に演奏することはありませんでした。
バイオリンを手に入れて弾けずにいる日々でしたが、楽器への愛着は強く、先輩でもあったH商会社長に楽器のグレードアップを相談して、バイオリン製作家のF野さんのところで、スズキNo.300の塗替えを依頼しました。Kenny Bakerのレコードジャケットを手に、こんな感じでお願いしますというC調な依頼でしたが、あがってきて見事な出来栄えに感銘しました。残念がら相変わらずバイオリンを弾く技術はゼロに近い状態でした。
そうこうしていて、Bobby Hicks、Ricky Skaggs、Johnny Gimbleらが弾いている5弦バイオリン(フィドル)というものに興味を持ち、1980年代半ばと記憶していますが、無謀にもスズキNo.300を5弦に自前で改造して今に至ります。
大学時代以降、ジャズバイオリンなるジャンルがあることを見つけ、レコードを買い漁りました。現在ジャズバイオリンが日本でも認知されて演奏される方も多くなりましたが、その誰よりも、僕はジャズバイオリンのレコードをたくさん聴いているのではないかと思います。
20世紀も終わりの頃、東京に移住して音楽せずに悶々としていた頃、ネットで見かけた知り合いのバンドにフィドルを持って押しかけました。ようやく正式にバイオリン(フィドル)を弾く機会を得、我流ながらそこそこ稽古もしてたくさんのステージで演奏させていただきました。しかしながら、そのバンドが解散してバイオリンに触る機会もほとんど無くなりました。それでは残念ですから、今年は、還暦を目前に、5歳の時の夢を叶えるべく、内緒でいろいろなところに足を運び、初心に戻ってお稽古したいと思います。