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歌追い人Update : 2004/01/06 Tue 20:31

年末のことになりますが、この映画を最終日に見てきました。

ストーリーは、研究者としての都会の音楽家(女)が、20世紀初頭には未開で野蛮であったアパラチアの山の中で出会った、ヨーロッパ由来のトラディショナルミュージックに魅せられて行く。そして、山の男との恋という単純なものでした。ストーリー自体の評価は僕や僕の仲間にとってはどうでも良く、劇中で取り上げられた音楽そのものを評価したいというところではないでしょうか。

劇中、「山の音楽」として扱われているのは、そのままマウンテン・ミュージックであり、今日ではオールドタイム・ミュージックと呼ばれる音楽の一番コアな部分です。オールドタイムについては、ここの守備範囲外(例えばこのサイトなんかで説明されています。)ですが、ブルーグラス・ミュージックと同じルーツを持っています。あるいは、オールドタイムこそブルーグラスのルーツという言い方も間違いではありません。ラジオやレコードが普及する前の時代のアパラチアの山の音楽が、忠実では無いと思いますが、かなり分かりやすく映画の中で再現を試みられています。

アメリカという国は、ヨーロッパの貧しい農民が新天地を夢見て開拓したことが始まりです。彼ら開拓者はアパラチアの山の中にも進んでいきますが、そこに代々暮らすようになった人達は、先祖の故郷であるヨーロッパ、特にアイルランドやスコットランドの文化を、形を少しずつ変えながら保持しました。音楽はその典型的な例で、現在でも古謡が残されています。

映画では、今から100年前、まさにそういう音楽との出会いを軸にストーリーが展開されていきます。僕の仲間の多くは、その音楽そのものが作品中で取り上げられたことを評価していますし、僕もこれは喜ぶべきことだと思いますが、実は、映画で語りたかったことは、山の音楽の素晴らしさだけでは無いのだと感じました。映画を見ると分かりますが、村にたった一本しかないギターを誇らしげに自慢する老婆の言葉が印象的です。ギター、バンジョー、フィドルをメインにしたストリングバンドが当時の山の中にあったかどうかは僕は知りませんが、ギターこそ山の音楽が町に出て行くキーワードだと僕は信じて疑いません。後に商業化された音楽はフィドル&バンジョーという構成よりもギター&somethingという構成が圧倒的に多いからです。事実、初期のヒルビリーヒットにはバンジョーやフィドルが入っていることがとても珍しいのです。ギターが生み出すコード感というものが、それまでのヨーロッパ由来の音楽に対して革命を与えたと考えられます。つまり、今のポップスはギター無くして有り得なかったということを映画では語られていると僕は見ました。

ギターは元々スペイン方面のラテン系の楽器で、アングロサクソンのフィドル文化とは違うところで流行していました。スペイン領イタリアで発明されたマンドリンでさえギター文化の影響を受けて現在に至っています。開拓時代、多くの楽器職人もアメリカに渡りましたが、ギターやマンドリンはドイツ系移民が作ることが多かったようです。(現在のマーチンやギブソンはそういう人達の末裔です。)ギターやマンドリンは都会の楽器だったわけです。

映画のフィナーレでは、ついに学者の恋人になった山のギター弾きが、一緒に山を降りて商業音楽をこれから作って行こうというハッピーエンドで幕が引かれます。そしてオールドタイムの香りを若干残した現在のポップスがエンディングで流れます。どうでしょう?バンジョーやフィドルではなくて、ギターこそこの映画のキーワードであることが、あなたにも分かるでしょうか。

斜め見と言われるかもしれませんが、アイルランド〜スコットランドの音楽をルーツに持つアパラチアの音楽が、都会の楽器であるギターと出会うことにより、町の音楽に変貌し、やがては現在のロックやポップスになっていく、というヒストリカルなことが、この映画のテーマであると僕は感じました。

さて、かなり時代考証をクリアして、分け知りのマニアには楽しく観ることができたこの映画、僕は一ヶ所疑問があります。エジソンが発明した蝋管式蓄音機(録音機)が現役で使われていた時代なんですが、主人公がバンジョーを初めて見る(聴く)シーンがあります。当時、北部の都会であってもバンジョー演奏家は居たはずで、現在ではクラシック・バンジョーと呼ばれる演奏が、まさに蝋管レコードで残されています。蝋管式蓄音機を駆使するような研究家であれば、バンジョーの録音は絶対に聴いているはずであり、楽器の存在も知っていて当然なんです。時代を遡って薬売りのミンストレルショーでもバンジョーは使われていたはずですから、バンジョーはけっして「珍しい山の楽器」では無かったはずということを書いておきます。

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