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音楽人生忘備録#6Update : 2013/10/13 Sun 19:31

40年くらい前の曖昧な記憶から、音楽を軸に忘備録を書き始めて10年分くらいは書きました。中学〜高校〜大学は学年ごとにキーになるトピックが有って、それを中心に思い出せば時系列に記憶が繋がっていくのですが、大学のクラブ行事への参加頻度が少なくなってきた頃から、この時系列な記憶の感覚が麻痺してきます。不確かな記述が多くなりますが、誤認識をご指摘賜れば幸いです。

記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。

1982年(22歳)は歌の文句ではありませんが、別れの年でした。大学時代ずっとバンドを一緒にやってきたマンドリン松尾くん、フィドル黒澤くん、ベース渥美くんが卒業〜就職するということで、春に関関同プーは活動を停止しました。

活動を終えるにあたり、2月の終わりに梅田堂山バナナホールにおいて「おじん・おばんGrass Concert」というブルーグラスコンサートを有志で企画し、関関同プーも出演しました。バナナホールはまだ営業を始めた頃で、立派なホールであるにもかかわらず、知名度も低くブッキングも閑散としていました。梅田シェーキーズに毎夜出演していたSouth Side Jazz Bandがバナナホールの二階に事務所を構えてブッキングを担当していましたので、僕らの方から手打ちコンサートを提案して、リーズナブルな予算で企画が成立しました。企画段階から梅田シェーキーズやバナナホール隣の樽正で打ち合わせを何度も行ったことが大変懐かしいです。

同じコンサートで、ベースとデュオというステージを演らせていただきました。当時少しずつ仕事を頂いていたジャズ演奏で覚えた曲を、自由にブルーグラスバンジョー上で弾いてみようというコンセプトでした。

フィドルの黒澤くんのサポートで関学のフェアウェルコンサートで演奏したのが、オリジナル関関同プーの最後の演奏だったと思います。コンサートのフィナーレで白のとっくりセーターを着て集合ダンスとシングアウトをしていた黒澤くんをよく覚えています。

関西大学のブルーグラス同好会の春合宿に行ったかどうかはちょっと思い出せません。

時期をよく覚えていないのですが、この頃、僕はサラリーマン(楽器屋社員)を辞めました。紙に書いた「一身上の理由」という文言はお約束ですが、元々仲良かったはずの、古参アルバイトのおっちゃんと僕の上司の女性関係を巡る確執に巻き込まれて、自分の立場がどっちつかずの面倒くさいことになっていたことと、あとは某メーカーのピアノ販売のノルマが僕にも掛けられたことで、ルーチンワークとは言えモチベーションが下がっていました。決定的なのは、勤務場所二階に在った暴力団事務所への発砲事件(店のシャッターに弾痕が残ってました)でした。勤続11ヶ月という失業保険を貰えない短期のサラリーマン生活でしたが、「時間報酬で働く時は、報酬以上に頑張ってはいけない」ということを勉強させていただきました。

サラリーマンを辞めてピュアなプー太郎に戻りましたが、Bluegrass 45のベテランギタリストのリーさんが経営する神戸の貿易商社で、卒業せずに留年を決めたギターの中井くんと一緒にバイトをさせていただくことになりました。不定期ですが、会社の繁忙期に1週間単位でお仕事をいただきました。リーさんの会社は以前から、関西ブルーグラス界のプー太郎に手間仕事で給料を払って生活を助けていました。神戸に足を向けて寝れないミュージシャンは少なく無いと思います。

この年から後の関大ブルーグラス同好会への入部は先細りでした。少数精鋭なら分かりますが、中学校の時から憧れの関西大学ブルーグラス同好会入部を目標にして育った僕から見ると、クラブに入らずに他所でバンドをやっても良かったような子たちばかりになりました。結果、数年後には廃部となる運命が待ち構えています。

大学時代を通して生活の一部となってた仲間とのバンド活動が無くなって、しばらくは充電していましたが、就職してすぐ退職した関学のマンドリン前田さんの音頭で組んだ、ほんにゃらごっこ(他のメンバーは同志社のドブロ・ギター山海くんと関大の後輩・ギターの樫村くん)のリハーサルをぼちぼちやりました。ほんにゃらごっこは、三重県菰野の前田さん宅まで行って練習することも多かったと記憶してます。

大学に入った頃からクラブの第二のたまり場だった、阪急淡路の「ひとりぼっち」という喫茶店のことを思い出しました。1978年大学1年の時の新歓コンパはこのお店の二階を借りて手作りのケータリングでやっていただいただきました。酔いつぶれて便器で頭を洗う人や顔面蒼白で痙攣している人もいました。関大前でお茶飲んでから、淡路でまたお茶を飲むということも日常茶飯事でした。この頃は、頻繁に出入りして、荷物を置いてそのまま近所のパチンコ屋に出かけたりもしました。あるいは、二階に常設してあった麻雀卓で徹マンもよくやりました。マスターの大西さんの別荘みたいな梅園が三重県志摩にあり、大西さんが店を休んでそこに滞在している時に電車であとから行って1週間くらい何もせずにボーとしてたこともあります。この喫茶店も青春の思い出として忘れられません。

この頃のブルーグラス演奏では、梅田シェーキーズや梅田丸ビル裏テキサスの他にもいろいろなお店でライブをさせてもらえる機会が増え、ジャムバンドで稼がせていただいたことを記憶しています。今になって思えば、バブル景気が順調に進行していたようで、ビアガーデンやショッピングセンターの休日の催事にも借り出されるようになりました。

この年の夏の宝塚ブルーグラスフェスティバルでは、また、大矢さん・小谷さん・田川さんの3本のサックスを擁したBlue Brass Bandでのステージを大変印象強く覚えています。この時のテープを以前は持っていたのですが、何処へ行ってしまったのでしょうか???このバンドは秋の宝塚フェスでも演奏しました。

ブルーブラスバンド

この年も前年に続き箱根フェスに行きましたが、お金がないので、緊急連絡用の10円だけ持って名神吹田SAからヒッチハイク4回乗り継ぎで東名大井松田BSまで行き、高速を徒歩で降りてとぼとぼ歩いているところを始発前の路線バスが拾ってくれて大雄山駅まで行けました。そこからは矢倉沢あらりまで徒歩で行き、最後は地元の軽四輪のおじさんを捕まえて地蔵堂まで上がれました。タダで長距離を予定通りに移動できました。朝の5時くらいにフェス会場に辿り着き、水場の椅子で寝ていたら、9時くらいに主催者の岩本さんに起こされて朝食をご馳走になりました。
ちょっと前にはギターの中井くんが来ると言ってたから、関関同プーでエントリーしてましたが結局ボク以外誰も来ないので、早稲田の田付さんにギターボーカル、京都の木下くんにマンドリンを頼んでステージをやりました。日本Tシャツセンター主催のバンジョーコンテストというのが夜中開催されました。参加者が順番にバンジョー曲を1コーラスずつ弾いていくという単純なゲームですが、既出曲はNGで前の人が弾き終えた30秒以内に弾き出せないと失格というルールでした。インチキがあってはいけないので、その曲がバンジョー曲としてほんとにリリースされたことがあるかどうかということを判定する識者も審判として同席しておられました。このレパートリーと記憶力を試すようなコンテストで、あの方やその方を凌いでなんと僕が優勝しました。優勝賞金とTシャツ数枚をGETできました。これで、フェスのチケットも買えましたし、帰りに車に同乗させていただくガソリン代も用意できました。
しかも日曜日に今でも開催されている公式行事のコンベンションではMaple Leaf Ragを弾いて二位を頂きました。(優勝は早川さん、三位は有田さん)

1982箱根コンベンション

ブルーグラス以外でも、ディキシーバンドのエイギョウ仕事で4弦バンジョーを弾くことも増えてきました。子供ショーの仕事も別の事務所からのオファーが増えました。

当時、2つ先輩のフィドルの大矢さんは本来ならたぶん大学7年生だったと思いますがドロップアウトして、スキップ楽団というジャグバンド編成で子供ショー向けの演奏をするバンドに加わって、フルタイムで演奏していました。大矢さんとは、マンドリンの前田さん達と組んでたピーマンというバンドでステーキハウス・テキサスでよく一緒に演奏しました。バンジョーはひとつ先輩の菅原さんが弾いていたので、僕はウッドベースを弾いていました。スキップ楽団の事務所が豊中市大黒町にあったので、僕は何度か大矢さんを訪ねてお邪魔してリーダーの矢野さんとも親しくさせていただきました。スキップ楽団は、吹田市江坂にできたばかりのカーニバルプラザの初代レギュラーバンドとして店内数カ所で演奏していて、そのトラの仕事を1度か2度承ったことがありました。規模の大きなファミレスですが、お客からチャージ相当を取らずに、生バンドを移動させながら演奏させるというバブル期ならでは斬新なスタイルでかなり流行ったお店です。フィドルの大矢さんはこの後上京し、数年後には東京ホット倶楽部バンドでブレークされました。

三宮地下のお店とか神戸まつりとかでも演奏しましたが、この年、三宮にリバティベルというライブハウスができて、よく演奏させていただきました。中でも大学の後輩たちとジャムで出たセットがマスターに気に入られて、Liberty Ramblersというバンド名でハウスバンド扱いしていただきました。メンバーは僕がバンジョー、4年生のギター水谷くん、3年生のベース細畠くん、2年生のマンドリン小寺くんでした。翌年3月の水谷くんの卒業までこのバンドは続いたと思いますが、残してあったはずの録音テープが見つかりません。。。。

この年は、後輩と演奏する機会が増えたにもかかわらず、関大ブルーグラス同好会の合宿やコンサート、学祭等の行事をほとんど覚えていません。たぶん、阪急淡路や国鉄六甲道あたりで音楽以外の遊びにうつつを抜かしていたのでしょうね。

続く

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