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どうやら今の銀座は僕が好きになれない街らしいのですが、残された映画や文献を見る限り、昔の銀座、それも戦前の銀座は、僕にとっては一種の憧れとも言える素敵な街だったようです。
先週末に銀座に行った時、その昔懐かしい憧れの銀座を思わせる銀座ライオンに行ってきました。今でこそ東京中にサッポロ系のチェーン店としてどこにでもあるライオンですが、昭和9年創建のホールがそのまま残る銀座7丁目のビヤホールは僕にとって特別です。いや、大勢の人にとっても特別なようで、このご時世でも、宵の頃になると連日のように入店待ちの行列が出来ているようです。
昭和9年のライオンはカフェと呼ばれていました。パリなんかのカフェとは違い、日本の戦前のカフェは、元々は、単に当時珍しかった洋食と洋酒をサービスするお店の総称だったようです。コース料理を提供するレストランではなく、今で言うグリルみたいな感じでしょうか?そういえば、今でも銀座の1丁目には昭和5年創業の、つばめグリルというお店もありますね。昭和に入る頃から、料理とお酒を提供するだけだったカフェが、チップ目当ての女給(今で言うウエイトレス)を無給で雇い、チップから店が歩合を取るようなシステムで、チップの額次第では売春に近いサービスを行なうお店に変貌しました。つまり、料理よりも人気女給をどれだけ揃えているかがお店の人気に繋がったようで、戦後のキャバレーに近い存在だったと言えます。中央通りを挟んでライオンの向かい側新橋寄りにはタイガーというカフェもあり、そちらはより過剰なお色気サービスがあったらしく、小説のネタになったり、文化人や芸能人の社交場としてライオンよりも繁盛していたようです。対して、ライオンの方は規律が厳しいため、女給さんがチップで稼ぐことが難しく、人気女給はタイガーに引き抜かれ、集客で苦戦したとの記述をどこかで読みました。今日、栄華を極めたタイガーが消え、経営母体を変えながらもライオンがそのまま残っていることを考えますと、下世話なサービスよりもマナーや料理を大事にしたライオンの潔いポリシーを讚えたくなります。
お店の宣伝は野暮なので、ここでは豊富かつ興味深いメニューの紹介をしませんが、次の注文をしたい時に、すでにホール係が側でスタンバイしていることに感激したことを書き留めておきます。呼んでも係が来ない他のチェーン店系の居酒屋も見習うべきです。そして、ホール係の歩き方も颯爽としていて気持ちが良いです。そして、何と言っても上の画像の通り、新橋演舞場を手がけた菅原栄蔵が設計し、昭和9年に創建したホールがそのまま残っているということで、今の銀座に消えた(と僕は考える)人情や粋というものが、そこにあるような妄想を抱いてしまいます。昭和9年頃と言えば、洋食や洋酒を楽しむことは一般人には馴染が無く、まだまだハイカラな人の嗜みだった時代です。当時のハイカラな人達とは、流行歌の歌手、映画俳優などの芸能人と菊池寛などの大衆小説家や文化人です。僕が好きなジャズソングは丁度その頃が流行のピークで、唄い手であった川畑文子やディック・ミネなんかも、ライオンでリキュールとカツレツを楽しんでいたことでしょう。喧騒深いライオンのテーブルに着く時、隣で彼らが酔っぱらって冗談を言っているような不思議な錯覚が起きます。(そういえば、同じ戦前に売れたジャズ歌手のリキー宮川は、カフェ・タイガーの店内で右翼と喧嘩をして新聞沙汰になったことが記録されています。)