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僕の前に現れる50%の人は卑屈です。仕事でないかぎり、僕は無理なお願いはしません。だから、卑屈にならないで欲しい。
あなた方が、それをできないのは十分承知しています。仕事だったら、できる人に頼みます。仕事でなくて、あなた方がやりたいことだから、一緒にやっているだけです。できないことをやってほしいわけではありません。あなた方がやりたいことなんだから、やって楽しいというところを見せてください。卑屈な態度は見たくありません。できないことはできないと言えばすみます。僕と一緒じゃ楽しくないと言うなら、それはそれで結構ですから、そう言って立ち去ってください。
楽しくないことはするべきではありません。
求心力を持つ人が抱えがちな問題であるような気がします。或いは、世の中の人々の多くは、年齢に関係なく精神的に自立できていないということが、この問題を生み出す要因なっているとも言えるような気がするのです。後ろめたい人が多いというか。
満たされていないと思ったりするのは勝手ですが、それはすべてその人自身が作り出している状況であり、一切の責任は自分で負わなければならないことを自覚できない人は厄介です。自分の心に開いた穴を、この人なら埋めてくれるに違いないとばかりに急接近し、最初は美辞麗句を並べて取り入ろうとしておきながら、自分の望んだように対応し続けてもらえそうもないと踏むと突然逆切れするような精神構造が、結構大手を振って歩いていられる世の中なのでしょう。
こういう精神構造の持ち主を最初から容易に識別できる場合もありますが、付き合いが深くなってから本性を現されたりすると、煩わしい限りです。それでも、裏切るよりは裏切られる方がマシだとは思いますし、来る者は拒まず去るものは負わずでいるのが、ストレスを最小限にする術なのかも知れません。
人が人らしく、動物が動物らしく生きるためには、自己主張が無くてはなりません。これは、成長と共に学習して行くもので、大人であれば、自己主張がうまくできないことが精神病の原因とされることもあります。僕の前に現われる50%の卑屈な人は、この自己主張の方法が稚拙です。いや、彼らにとってはそれが最大限の自己主張なのかもしれません。曰く、「どうせ私は馬鹿ですから…」。これは、駄目な人間名物「どうせ私は馬鹿です」饅頭です。とても不味いので全然売れません。
よく、日本人はプレゼンテーションが下手だから国際的に損をしていると言われます。実際に「普通の」脳天気なアメリカ人と普通に話してもそれを感じます。彼らの言葉は、なんでもない自分のことを最大限賛美し、恥ずかしさ・奥ゆかしさ、そういったものが一切感じられません。子供の時から、そういう風に堂々と振る舞うことが大事だと育てられたのでしょう。カントリー好きの人に多いのですが、単にアメリカかぶれで、そういったアメリカ人の言いぐさを真似する人に何人か遭遇したことがあります。ほとんどの方が、自慢と自信の違いをお分かりになっていないようで、謙虚さを捨てた、嫌みな日本人に成り下がっています。
生き方やプロジェクトに自信を持つということは非常に大事です。海外では自信を持てなかった時点で、欠格でしょう。日本では、代わりに謙虚さの方を優先します。しかしながら、謙虚とは自分を卑下するものではありません。自信を持てども自慢をしないというのが、謙虚さです。多くの人は、謙虚さを自分を卑下することだと取り違え、「どうせ私は馬鹿ですから…」…。
僕は「どうせ馬鹿」の人とお付き合いする時間を持つのが苦痛です。
なるほど、50%の正体はそれでしたか。はずしてしまいましたね、すみません。お疲れ様です。
いえ、当たらずとも遠からず、かなと思います。
たぶん、両者とも、人の期待に応えることを一切考えていませんから。仁義無しです。
連れ合いのEtsukoです。
>Corge様
Corgeさんが話されている人の中に「人格障害」と呼ばれている病気があります。有病率は50 人に1人とも言われていますので、そういった人に遭遇してしまう、または、自分がその病気に罹患する確立は高いでしょう。詳しいことはWebでいくらでも調べることができますので、興味がありましたら「人格障害とは」と、検索エンジンに入力されて知識を深めてください。
長谷川と交わす会話の中に、「どうせ私は馬鹿ですから…」と言った人に、「そうでしたか。やはりそうでしたか。前からおかしいと思っていたのですが、やはりあなたは馬鹿でしたか」と面と向かって言ってみたらどういった反応をするか考察をしています。「逆ギレをする」「反省をする」「呆れてなにも言わなくなる」等々、結果は様々に考えられますが、私の考察は「逆ギレする」と考えています。もっとも、この「逆ギレ」のほうが私の思う壺となりますので、扱いは簡単なのですが…。「あなた、さっき、馬鹿だって言いましたよね。ご自分で言ったことに責任を持ってください」
私は、お茶の世界を知っていますが、この中の人物の大半が「私の点前はたいしたことはありません。道具もたいしたことはありません」という姿をみせながらも、その実は、「あなたの点前は素晴らしいし、御道具だってこの場にふさわしいものばかりですね」なんて、美辞麗句をたくさん並べ立て「いいえ〜、そんなことございませんが、これは、○○××さんの作で、箱書きは■□宗匠の名前が入っていますのよ」。おいおい、あなたはいったい何が言いたいの!といつも思っています。これが謙譲の美徳だと思っている人が、日本人の大半を占めていると考えてしまうのは、別に茶道の世界に限ったことではありませんが。
「どうせ馬鹿」根性は日本人特有のものだとしたら(茶道の歴史は室町時代から遡ります)、これを修正するには、社会や教育を変えていかなくてはいけないなと考えています。それとも、「どうせ馬鹿」根性を気づかせてくれるような人に出会い、自らが学習し、自身を持つ力をつけて行くか…。難しいところですね。
猫は、卑屈になることもなく、思いきり自己主張してくれます。「負うた子に教えられる」という諺がありますが、ただただ寝ている猫にも教えられることがたくさんあります。
人は社会の中では、褒めて欲しい、と考えることがノーマルだと思います。褒めてもらうためには、それなりの貢献をすれば良いだけなんですが、大抵は、自分は第三者より劣った人間であることを第三者にアピールして、嫌われないようにすることが精一杯のようです。つまり、自分が劣った人間であるということを免罪符に、敵になるのを避けているわけです。それが大失敗だと分からない人がなんと多いことか。
僕は、他人をねぎらうことはしますが、他人を褒めるときは、人並み以上の貢献をした人、あるいは結果を残した人しか褒めません。人並み以下のことしか出来ず、褒めてもらえるつもりが無視されて、卑屈になるのでしょう。誰にでもできることをやっただけで、なぜ褒めてあげないといけないのでしょうか?たとえ一所懸命やったんだとしても。当たり前のことを褒めるということは、その人を見下しているのと同じで、こんな失礼なことは無いと考えています。
このテーマに該当する具体例の引き出しには、お互い相当数のサンプルが収納されているようですね。多くの人と接すれば接するほどその量は増え続けるわけで、文字を介して検証するもどかしさを禁じえません。将来、長谷川さんご夫妻にお目にかかれる機会でも得られれば、短時間にかなりの考察ができそうな気がします。と言って立ち去ったのでは仁義にもとると思いましたので、やはりまたスペースを頂くことにします。
そうですね、人格障害ですね。それにしても、体感温度をもじるわけではありませんが、その予備軍を含めた実感数値は、統計値や推計値を上回るものがあります。そこで、羅患予防策なるものを思い浮かべてみたのですが…
*人に甘えず自分のリスクで物事に臨む癖をつける。何でも人のせいにしたが る人は、絶対にこれを改める。とにかく甘ったれるな。
*何かを始める時などにネガティブな不安材料を真っ先に考えつく人は、それ を改め、常にプラス思考を心がける。
*「馬鹿ほど考える」…考えてばかりで一歩も踏み出せずにいる人は、まず行 動し、そこから経験値を積み上げて知識と英知のバランスをとる。常に行動 を先行させる癖をつける。
*初心者は、自分より経験豊富な先輩や上司から受けたアドバイスに関して多 少疑問を感じても、『正確に言われた通りに』まずやってみる。このプロセ スを踏んでなお解消しない問題があれば、遠慮なく発言する。但し、「あ、 それもやってみたんですけど」をやたらと連発する者については、ちゃんと やったかどうかの検証を要する。
*年長者や経験豊富な先達といえども、後輩や若い人に自分より光るものを感 じたとしたら、決してこれを妬んだり潰そうとしたりせず、更に芽を伸ばす ための支援に回れるぐらいの心の余裕と謙虚さを持つ。どうしても後進に追 い越されたくないのであれば、そのための努力を自分がすれば良いだけのこ とで、間違っても他人を潰すためにエネルギーを使ってはならない。
…等々等々。ちょっと論点がずれてきているかも知れませんが、人格を歪めないためには、自分に対する適度な厳しさが不可欠なのではないでしょうか。上記程度の事は、どれも簡単に実行できることばかりだと思います。と書くと、必ず「あなたには簡単かも知れないけど、私には無理ですねえ。」としか言わないドーセバカ族が現れるのでしょうね。
ついでに、これからの時代のコミュニケーションに必要と思われる基本的なマナーについても考察してみました…
*自分の意見を持ち、それを正確に表現できるように日頃から訓練・実践する こと。
*そして、表現しきれたことだけが他人が自分を理解する手掛かりだと覚悟 し、表現できなかったことについてまで、人から理解を得ようと思ったり察 してもらおうとする、不当あるいは過度な期待は捨てること。「察し」が日 本文化であり日本人の美徳などと言って表現を不適切に端折るのは、異文化 の行き来が激しい現代では明らかに手抜きであり、言外の解釈というリスク を他人に押し付ける卑怯で間違ったテクニックである。
*従って、自分の表現の不適切さが原因で人を不快にさせた場合には、「そん なつもりで言ったんじゃありません」でエクスキューズできると思ったら言 語道断で、素直に非礼を詫び、表現力の研鑽に目覚めるべきである。
*人の意見を正確に理解し、これも相手が表現したことだけを念頭に置き、決 して下手な深読みや裏読みをして、思い込んだり悩んだり恨んだりしないこ と。好んで裏の意味を込めるような人は信頼するに値しないので、付き合わ なければ良い。
話が長引きました。お許しください。
Corgeさんが書いてくださった箇条は、常々僕も教訓にし、また人にも示唆していることです。全くもって異論はありません。
しかしながら、これらの箇条をわざと無視している無責任な人が多すぎるということです。社会人なら他人に言われなくても、身に付いているべき素養・教養であるわけですが、我知らずという人のなんと多いことか。Corgeさんには失礼かもしれませんが、団塊の世代に顕著です。これからどんどんリストラされていただくしかないでしょう。身の不幸を泣いていただいて、ざまあみろ、と言わせていただきましょう。
また、この手は、かつて新人類と言われた、僕なんかより少し若い世代にも多いです。
団塊ジュニアに多いニートと呼ばれる人種はまだましです。できないことは最初からやりませんから。無気力と言われても、ドーセバカ族よりもニートの方がまだ害がありません。
いいえ、失礼なことなどまったくありません。どんな世代に属していようと、ダメな者はダメ、マシな者はマシなのですし、評価に手心を加えると、人の成長を阻害しますから。害のある奴にはどんどんリストラされてもらいましょう。バカを配下に持った方が楽という本心で有益な部下を排除したがる管理職にも、一斉に退陣してもらいましょう。ドーセバカ職員一掃月間なんてものを掲げる企業や官庁があったら、さぞ痛快でしょうね。
Corgeさんは豪快ですね。
僕は自営ですから、リストラよりも手強い生存競争の中に居ますので、お勤めの人の暢気さ加減にいつも飽きれています。こりゃだめだ、という輩は決まってキツイ職場に回されるかリストラに遭うようで、友達でも他人事ながら、世の無情を感じています。