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記憶が曖昧になっているのを自他共に認めざるを得ないので、40年ほど前からの人生の記憶を音楽を軸にして忘備録として書いておきたいと思います。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームじゃないのでご容赦ください。
11歳(1971年)、兵庫県川西市多田小学校の6年生でした。前年は東京杉並で暮らしたにも関わらず、夏は昆虫採集、冬は雪合戦に興じる田舎の子供になっていました。当時の小学校にしては珍しく、音楽の授業は音楽室で音楽の先生に習いました。僕はハーモニカもリコーダも吹けない音楽嫌いでしたが、「世界の楽器」というような授業があって、いろんな楽器の存在を教えてもらいました。中でも背中の丸いマンドリンとバンジョー(たぶん4弦)、コントラバスは楽器が音楽室に置かれていて、女の先生が実演してくれました。先生はマンドリンクラブ出身だったのかもしれませんね。レコードも掛けてくれて、フォスターの曲をバンジョーで弾いているのを聴かせてもらった記憶があります。その時からバンジョーの音は僕の脳味噌の端っこに刷り込まれました。
20〜30年後(成人するとあっという間に過ぎる時間です)にハイグレードなアナログオーディオシステムが一般に普及していないと思うので、今後の再生システムにアナログvsデジタルの音質の優劣について語ることはちょっと置いておきます。また、アナログ時代を人生でかなり共有してますので、アナログ時代のアルバム文化や再生システムへのこだわり等、玄人的な粋な部分も理解していますが、ここではスルーしますのでご容赦ください。
アナログ音源のデジタル化についてちょっと語らせていただきます。
「ジャンゴの日」というトピックでも書きましたが、今から10年前にはDjango Reinhardt没後50年ということで、本邦においてもDjango Reinhardtの音楽やフォロワーの演奏するジプシージャズが人気を博す所となりました。
それで、日本でもいよいよ、ジプシージャズについて、ファンが正当な評価をしながら演奏家のリスペクトを受け止める体勢ができたか、と言うと、まだまだ時期尚早でした。特に「フォロワーの演奏するジプシージャズ」のみが評価され、「ジャンゴの弾いたジャズ」は無視されたような格好でした。ファンもプレイヤーも、ジプシージャズの祖としてのジャンゴへのリスペクトはありますが、ジャンゴの残した演奏に対しての評価がまともに行われたか甚だ疑問です。
同じ理由だと思いますが、ジャンゴの演奏から演奏方法を学ぶのではなく、フォロワーの演奏をお手本に入門するプレイヤーが後を絶ちません。ジャンゴよりフォロワーの方が遥かに高度な演奏ですし、古臭いモノラル録音のジャズ演奏よりも、たまに8ビートの混じる現代のジプシージャズの方が入門者にはとっつきやすいのでしょう。なので、ジャズ演奏の一つの流派(方法論)としてジャンゴのお作法でギターを弾くのではなく、完全に独立したジプシージャズというジャンルの上でギターを弾くという感覚なのでしょう。裾野を広げるには良かったとは思います。ただ、若い人の中には、自分はマヌーシュのギタリストだという人も居て、なんか気恥ずかしい気持ちにもなります。(せめて、ジャズ・マヌーシュのギタリストと言って欲しい!ハードディスクのことを「ハード」というおっさんと同じレベルの教養では悲しい。。。)
1973年、大阪府吹田市に引っ越した僕はプラモやUコンで遊ぶのが楽しみでした。そんな普通の中学1年生のところに、ある日、新品の五段外装変速フラッシャー付きセミドロップハンドルスポーツ車、つまり当時の中学生垂涎だった最新式の自転車が東京から送られてきました。まさに青天の霹靂です。
中学1年の時、同級生の男子の何人かはギターを弾いてフォークソングを歌い出しました。それがかっこよくて僕も親にねだって、国鉄吹田駅前楽器店にて安物を一本買ってもらいました。
次の日曜日だったと思うけど、うれしくて友だちのところにギターを持って行くと、奴のとなんか違うんです。奴のは鉄弦張ったフォークギターでしたが、僕のはナイロン弦を張ったガットギターでした。それで急にモチベーションが下がって、以後そのギターを弾くことはありませんでした。
そんなこんなでもまだフォークギターに未練が有りました。ある日拾った少年サンデーの巻頭カラーページにモーリスのフォークギターが賞品として載っているのを見つけました。速攻で10円を握りしめて郵便局で葉書を買い、ギター目当てに応募するのですが、なんとその懸賞は懸賞ではなく、当時美少女アイドルとして売り出し中の浅田美代子さんの持ち歌の歌詞を作ろう!というコンテストでした。
未だに文才がなく書き物で苦労している僕ですが、普段試験前でも徹夜なんかしないのにその日はほぼ徹夜で歌詞を書き上げて翌朝投函しました。ポストの前で最敬礼したのは言うまでもありません。
そんなこんなで、作詞コンテストに応募したことも忘れていた数ヶ月後、五段外装変速フラッシャー付きセミドロップハンドルスポーツ車(長い!)が送られてきました。送り主は小学館でした。なぜ小学館から最新式の自転車が僕に送られてきたのか事情を理解しないまま、新品の自転車を半日ほど乗り回してるうちに、思い出しました。五段外装変速フラッシャー付きセミドロップハンドルスポーツ車(しつこい!)は浅田美代子作詞コンテストの特賞だったのです。モーリスのフォークギターは二位の賞品でした。
その週の少年サンデーを近所の駄菓子屋で立ち読みしたら巻末の当選者発表に僕の名前が特賞として載っていました。たしか、募集の時の触れ込みでは特賞作品はプロの作曲家が曲を付けて浅田美代子が歌うということだったのですが、そういう経緯はその後ありませんでした。広告代理店主導の大人の事情だったのでしょうか?また、控えも取っていないので、プロットは覚えていますが、未だにどんな歌詞を応募したのかちゃんと覚えていません。(浅田美代子さんのアルバム等を全て聴いていないので分かりませんが、もし中学生の書いた詞を改作して自分の作にしているような作詞家が居たとしたらカッコ悪いですよね。)
創作物はバックアップが大事だということを13歳にして覚えました。
どうでもいいですが、なかなかギターと縁ができない中学時代でした。
僕はいわゆるグルメでも無いし、食べ歩きが趣味だなんて言えない食生活をしているので、サンプリング母数も統計としてはお話にならないので、これから書くことは或る集合に属される方々にとってはかなり不愉快な話になることを予め謝っておきます。