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音楽を軸に自分の過去について曖昧な記憶から時系列に忘備録を書きはじめて、30年ほど前のことに差し掛かりました。中学〜高校〜大学は学年ごとにキーになるトピックが有って、それを中心に思い出せば順番に記憶が繋がっていくのですが、大学と縁が少なくなったこの頃は、時系列での記憶感覚が麻痺しています。不確かな記述が多くなりますが、誤認識をご指摘賜れば幸いです。
記憶が曖昧なので人名はほとんど忘れましたが、文中の人名は実名です。曖昧な記憶の中でも強烈に覚えてるという証です。フルネームで書きませんのでご容赦ください。
1983年の関西大学ブルーグラス同好会学祭で思い出したことがあります。それで、当時経済的にちょっと悪い状況にあったので、クラブが学祭で出店していたライブハウスに自分のギターに値札を付けて置いておいて貰ったんです。数日間開催のうち、僕は1日しか行ってないのですが、僕が不在の日にそのギターを買いたいという人が現れて連絡先を書き置きしていったということでした。その時はそれでああそうですか、ということだったんですが、数日後その人から連絡があって、近くに住んでるから遊びに来なさいということでアパートに伺いました。結果的にはギターは買ってくれなかったのですが、その人はかなりの音楽通で、ロック、ブルースに精通しており、それから頻繁にお付き合いするようになりました。大阪に赴任してご夫婦で関大前に住んでられた押本さんとの運命の出会いでした。
その押本さんは当時25歳、僕は23歳、イベントの無い週末ともなれば退屈して何かして遊ぶ毎週でしたが、ある日、会わせたい人が居るということでお会いしました。なんと、僕が高校生の時に吹田の片山公園でお会いした、バンジョー中村さん、フィドル西山さん、ギター中尾さんというブルーグラス・ミュージシャンの方々でした。6、7年ぶりの再会でした。20代の時の6、7年はかなり長いご無沙汰に感じました。お三人は、吹田のSTUDIO YOUを毎週末リハーサルの根城にしてJCペニーというカントリーロックバンドを演っておられました。そのバンドのベースマンが今マンドリンルシアとして高名なWadeの上田さんでした。
Tony TrischkaがSkylineという自分のバンドで来日した時に、某雑誌のインタビューをすることになって、押本夫妻に通訳をお願いしたことを思い出しました。また、Tony Trischka and Skylineがゲスト出演した秋の千里セルシーのブルーグラスフェスティバルでは、バンジョーバンドのBanjo Feverでステージに上がり、Tony Trischkaオリジナルの「Roberto’s Dream」をTrischkaの目の前で演奏したということも思い出しました。
1983年12月3日には佐々木由紀さんプロデュースの芦屋ルナホールのコンサートにバンジョーバンドのBanjo Fever Specialで出演しました。たしか8人編成まで膨れ上がってました。この時はベースもピアレスのロングネックバンジョーにベース弦を3本張ったバンジョーベースを使用しました。録音を聴く限りベースとしてちゃんと機能したようです。
年明けて、僕の24歳の年(1984年)は後述しますが、僕のひとつの転機になった年です。この年の前半は、時間のある時は相変わらず、神戸のリーさんの貿易商社でバイトしていました。バイト先に楽器と衣装を持って行って、バイト終了後その足で神戸三宮のライブハウスLiberty Bellに出向き、Country Children(僕がバンジョー、関大4年生のベース細畠くん、3年生のマンドリン小寺くんとギター赤澤くん)のライブをするということもよくやりました。
この頃、神戸のLiberty Bellでは毎週のように演奏させていただきました。Country Childrenの他にジャムセッションやトラでの演奏ですが、回を重ねるうちにバンドらしくなってきたのがShin & Qというセットで、バンジョー僕、ギター中井くん、マンドリン秋元さん、ベース渥美くん、エレキギター足立くんという編成で、全員がプラグインするというステージでした。2月9日の実況が残っています。
3月18日には大阪梅田堂山のバナナホールで最後となる3回目のオジンオバンGrass Concertがありました。実況録音が残っているので、僕はCountry Childrenで参加したと思います。
4月になって、Country Childrenのベースの細畠くんが卒業〜就職していました。バンド活動の継続は難しいということで、4月28日に神戸Liberty BellでCountry Children最後のライブを行いました。
八王子のSHIMOギターが今年30周年だそうですが、ルシアの志茂さんは前述Wade上田さんのロバート・ベン・ギター製作学校の同級生ということで、たしかこの頃にご紹介いただいたと思います。ほんとに初期に作ったギターが吹田のSTUDIO YOUに置いてあって弾かせてもらったことも思い出しました。
春頃は、当時まだ大阪に居られたフィドルの祇園さんの紹介で、印刷屋さんのバイトをネクタイ締めてやってました。企業の社屋の中の印刷室という場所で印刷やコピーの補助をするという仕事でした。この時に写植の指定やオフセット印刷の仕組みを覚えました。
夏頃は神戸のリーさんのところには行かずに、知人のご紹介で広告代理店の製作補助要員のバイトをさせていただきましたが、勤務スケジュールの点で折り合いがつかずに数ヶ月で解雇されました。知人には大変ご迷惑をお掛けしたことと思います。今更ですが、すみませんでした。
この頃、僕は転機が訪れました。吹田市江坂にあったカーニバルプラザというかなり大きなファミリーレストランでの演奏を始めることになりました。以前はスキップ楽団というジャグバンド式のバンドがレギュラーで演奏していましたが、この頃はディキシーランド風の演奏をするトロンボーン+アルトサックス+バンジョーのトリオ編成のThe Carnivalsがレギュラーで毎日演奏していました。そのバンドが週イチで休む時のチェンジバンドとして、ギターorバンジョー僕、マンドリン秋元さん、フィドル赤澤くんのトリオで、(長期のトラが入ったりしましたが基本的にこのメンバーで、)この後8年間準レギュラーでの演奏を続けることになります。僕らのバンドは、トラディショナルをやる場合はThe String Band、カウボーイミュージックを演る場合はNaughty Cowboysと名乗ってました。
特に赤澤くんはギターやバンジョーはそこそこなんでも弾けましたが、フィドルを大々的に弾くのはこの時が初めてということで、かなり気合入れて練習したようです。
月に数回、カーニバルプラザのレギュラーバンド、The Carnivalsのバンジョーのトラとしても、僕はオファーいただくようになりました。僕らのThe String Bandも催事での演奏などポツポツと承るようになりました。
前年、少しは人前で演奏した「ほんにゃらごっこ」は、すでに社会人だった樫村くんがフェイドアウトしました。それで、やはり社会人でしたが、同じ後輩のギターで前年までLiberty Ramblersで一緒だった水谷くんを起用して「だらぶつごっこ」というバンド名でマンドリンの前田さんとトリオにて再始動したようです。たぶん1年も活動していませんが、奇跡的にこの年の11月の関西大学学祭での実況が残っていました。
学祭と云えば、前述カントリーロックバンドJCペニーのフィドラー西山さんが新婚間もない奥さんと共にブルーグラス同好会のライブハウスにお越しになったので、是非にとステージに上っていただきました。これも実況録音が残ってました。
年明けて25歳の年(1985年)はブルーグラスのバンド活動をあまりしなかったようで、前年始めたカーニバルプラザの準レギュラー演奏やら、ディキシーバンドでのエイギョウやら着ぐるみ被っての子供ショーやらで結構忙しく過ごしていたようです。
まず早春に、関大前の三畳一間のアパートを引き上げて、元々家族と住んでいた阪急吹田の文化住宅に戻りました。歩いて数分の駅の反対側には3年後輩の籾山くんがアパートを借りていましたので、けっこう行き来したような記憶があります。しかし、彼はすぐに卒業ということで春に記念の録音をして名古屋に帰りました。
阪急吹田のむさ苦しい自宅にて個人レッスンも始めました。
1983年の秋に知り合った押本さんに、大学時代からの盟友、ギターの中井くんを紹介し、意気投合して吹田のSTUDIO YOUでリハーサルロックバンドを組んだのもこの年です。押本・中井・長谷川のトリプルギターでまず始めましたが、カントリーロックバンドJCペニーでギター&バンジョーを担当してた中村さんにベース、South SIde jazz Bandでベースを弾いていた石倉さんにドラムをお願いし、後輩の山西くんにエレキフィドルを弾いてもらいました。長きに渡ってそのバンドはリハーサルを続けましたが、上手になって人前で演奏することよりもリハーサル後の打ち上げを楽しむようなバンドでした。僕もその打ち上げを楽しみましたが、それよりも、生まれて初めてちゃんと弾くエレキギターやエフェクターの使い方を勉強できて、それになによりもそういうバンドでなければ出来なかったロックやブルースの名曲をたくさん覚えられたことが大変な収穫となりました。後年この経験がTiger Catsというバンドで役に立つことになります。
2年前から黎明期のマウンテンバイクをマンドリンの前田さんから譲り受けて乗っていましたが、この頃、日本でもマウンテンバイクが認知され始めたので、マニア向けの自転車屋さんでレディメイドの新車をオーダーして乗っていました。仲間の押本さん夫妻も自転車が好きでサイクリングによく出かけるようになり、すぐにクロカン車やロードレーサーに鞍替えしました。速い自転車に乗るようになると、更に速く走りたくなるもので、僕は個人的にトレーニングを重ね、これから数年の間、ミュージシャンなのか自転車選手なのか分からない日常が続きます。
各地のフェスはほとんど参加していませんが、サイクリング代わりに三田の山の中で行われる宝塚ブルーグラスフェスには、吹田の自宅から自転車で何度か行きました。自転車で行ったので楽器が無く出演はしていないと思いましたが、関学のピグモンというバンドでベースのトラをしている録音が残っているらしいです。
(続く)